源義家(読み)ミナモトノヨシイエ

デジタル大辞泉 「源義家」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よしいえ〔‐よしいへ〕【源義家】

[1039~1106]平安後期の武将頼義の長男。通称八幡太郎。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち、のち、陸奥守鎮守府将軍となり、後三年の役鎮定東国における源氏勢力の基盤をつくった。

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精選版 日本国語大辞典 「源義家」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よしいえ【源義家】

  1. 平安後期の武将。頼義の長男。母は平直方の女。石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号する。天下第一の武勇の士といわれ、前九年の役に父頼義とともに奮戦し、功により出羽守となる。のち陸奥守となり後三年の役を鎮定して東国の武士の信望を得、源氏が東国に起こる基盤をつくった。長暦三~嘉承元年(一〇三九‐一一〇六

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改訂新版 世界大百科事典 「源義家」の意味・わかりやすい解説

源義家 (みなもとのよしいえ)
生没年:1039-1106(長暦3-嘉承1)

平安後期の武将。源頼義の長男。母は上野介平直方の娘。石清水(いわしみず)八幡宮で元服し〈八幡太郎〉と号した。前九年の役に父に従って参戦,勲功により1063年(康平6)従五位下出羽守となり,やがて下野守に転任した。70年(延久2)には陸奥で藤原基通を追捕(ついぶ),その後京に戻り,主家藤原摂関家の警衛や京中の治安維持の任に当たった。このころ〈武勇の輩(ともがら)〉といえばほとんど源氏,とくに義家一党を指すほどに源氏の武力は成長していた。在京中義家は大江匡房(まさふさ)に兵法を学んだという。83年(永保3)陸奥守兼鎮守府将軍として赴任,任国に起こった清原氏の内紛を私兵をもって鎮定した(後三年の役)。この際義家の弟義光が兄の苦戦を聞いて馳参したことは有名。乱後,朝廷はこの争乱を私闘と断じて恩賞を行わず,乱平定の翌88年(寛治2)には義家の陸奥守を解任した。しかしこの戦乱を通して義家と東国武士間の主従結合が強化され,義家は〈天下第一武勇之士〉と評されるに至った。義家の名声を頼って諸国の在地有力者がその田畠を義家に寄進したため,朝廷は91年(寛治5)にこれを禁止したほか,その翌年には義家構立の荘園の停止(ちようじ)を命じている。98年(承徳2)になってようやく陸奥守時代の功過が定められ,正四位下に叙されて院(白河)の昇殿を許された。しかしこの前後に弟源義綱との内紛や,子源義親(よしちか)の配流(はいる)事件などがあり,苦しい立場の中で没した。この後,義親追討を通して平正盛が台頭することとなる。

〈武略神通の人〉といわれた義家については伝承もきわめて多く,とくに全国各地の八幡神社には義家伝説が多数伝えられている。すでにその生誕に関して,父頼義が八幡宮に参詣したとき夢告により宝剣を得たが,その同じ月に妻が懐胎し,生まれたのが義家であったといわれている。そのほか,《古今著聞集》《古事談》や《陸奥話記》《奥州後三年記》《源平盛衰記》などの説話や軍記物に所伝が頻出する。有名なものとしては,前九年の役の衣川(ころもがわ)の戦で敗走する安倍貞任(さだとう)に〈衣のたては綻(ほころ)びにけり〉とうたいかけたところ,貞任が〈年を経し糸のみだれのくるしさに〉と答えたので,その教養に感じて矢をおさめたという話(《陸奥話記》),京へ帰って貞任討伐の自慢話をしたところ大江匡房に〈惜しむらくは兵法を知らず〉と言われ,かえって喜んで匡房に弟子入りして兵法を学んだこと,そして〈兵野に伏すとき,雁列を破る〉との兵書の教えから,後三年の役では斜雁の列の乱れをみて伏兵を知ることができたとの話(《奥州後三年記》)などがあげられる。

 義家伝説を大別すると,(1)戦闘での武勇伝と,従者や武勇之仁に対する武将としての思いやりを描いたもの,(2)そこから派生して義家の名や声を聞いただけで猛悪な強盗も逃げ出すというような,〈同じき源氏と申せども,八幡太郎は恐ろしや〉(《梁塵秘抄》)に発展する類のもの,(3)さらに義家によって物の怪(もののけ)や悪霊さえも退散するという神格化された武勇神とでもいうべき義家像を描いたもの,の3種がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源義家」の意味・わかりやすい解説

源義家
みなもとのよしいえ
(1039―1106)

平安後期の武将。河内(かわち)源氏の嫡流で頼義(よりよし)の長子。母は上野介(こうずけのすけ)平直方(なおかた)の女(むすめ)。7歳の春、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の宝前で元服し、「八幡太郎(はちまんたろう)」と号した。前九年の役に、父頼義に従って出陣し、安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)父子と戦い、1062年(康平5)貞任を衣川関(ころもがわのせき)(岩手県)で破り、ついで厨川柵(くりやがわのき)で滅ぼし、その功によって従(じゅ)五位下出羽守(でわのかみ)に任ぜられた。

 この前九年の役における奮戦によって、一躍、武勇の名を天下に広め、『陸奥話記(むつわき)』などにその合戦のようすが描かれるに至る。検非違使(けびいし)や左衛門尉(さえもんのじょう)として僧兵の嗷訴(ごうそ)の鎮圧などに活動するとともに、下野(しもつけ)、相模(さがみ)、武蔵(むさし)、河内などの国司を歴任し、83年(永保3)陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍になった。そのとき、奥羽の豪族清原(きよはら)氏に内紛が起こり、清原真衡(さねひら)と同家衡(いえひら)・藤原清衡(きよひら)とが抗戦状態になった。義家は真衡を援助してこの内紛に介入し、真衡の死後、家衡と清衡が対立すると、86年(応徳3)清衡を助けて自ら数千騎を率いて家衡を攻撃した。義家は、家衡の激しい抵抗と飢寒のために苦戦したが、ついに87年(寛治1)金沢柵(秋田県)を攻略して家衡を討った。これが後三年の役である。

 この戦いにあたって、義家は清原氏追討の官符を朝廷に求めたが、朝廷は義家による奥州征覇の私戦とみなして、追討の官符も恩賞も与えなかった。そのため義家は自らの私財をもって麾下(きか)の将兵の功に報いた、と『奥州後三年記』は伝えている。

 こうした義家の行為と奮戦の武勇によって武士の信望を集め、東国における源氏の勢力は著しく進展した。やがて、諸国の武士や百姓のなかで義家に荘園(しょうえん)を寄進する者も多くなり、義家は「天下第一武勇之士」などと称され、白河(しらかわ)院政を支える軍事力の中核となって活動し、98年(承徳2)には院の昇殿を許されるまでになった。しかし一方で、院や貴族は、義家の勢力が急激に増大するのに警戒心を強め始め、91年(寛治5)義家の郎党と弟義綱(よしつな)の郎党との所領争いから義家と義綱の戦闘が惹起(じゃっき)されようとすると、朝廷は義家の入京を制止し、諸国の百姓が義家に荘園を寄進するのを禁じる宣旨(せんじ)を出した。その後も、朝廷はできるだけ義家の勢力が拡大するのを抑えて、弟義綱や平正盛(まさもり)を重用する方針をとった。このため1106年(嘉承1)7月、義家が没すると一族内部に深刻な後継者争いが生じて源氏の勢力が没落し始め、かわって平正盛・忠盛(ただもり)らの平氏が台頭してくるのである。

[田中文英]

『安田元久著『源義家』(1966・吉川弘文館)』

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朝日日本歴史人物事典 「源義家」の解説

源義家

没年:嘉承1.7(1106)
生年:長暦3(1039)
平安後期の武将。源頼義と平直方の娘の子。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号す。永承6(1051)年に勃発した前九年の役に父に従って参戦,天喜5(1057)年の黄海の戦の大敗で頼義以下主従7騎が敵200騎に包囲された際,義家の抜群の騎射によって危地を脱したという。康平5(1062)年,同乱平定,功により従五位下出羽守となる。同7年には美濃国の郎従を攻撃した源国房と合戦。次いで延久2(1070)年に陸奥で反乱を起こした藤原基通を,承暦3(1079)年には美濃で私戦を惹起した源重宗を追討,永保1(1081)年には白河天皇の賀茂・春日などへの行幸に際して,園城寺悪僧の防御に当たる。同3年,陸奥守に就任,豪族清原氏の内紛である後三年の役に介入。義家の調停に反抗した清原家衡,武衡らを討ち清衡を助けたが,朝廷の停戦命令を無視し,砂金など官物の納入も怠ったため,合戦は私戦とみなされて恩賞もなかった。以後,摂関家に近侍した弟義綱と対立,寛治5(1091)年には河内における郎等相互の抗争から両者は京で合戦を構えた。合戦は未遂だったが,義家のみ諸国からの荘園寄進を禁止される。 承徳2(1098)年,白河法皇の意向によって陸奥守の功過が定められ,同年には院の昇殿を許され院の側近となり,長治1(1104)年に延暦寺悪僧を追討するなどの活躍をした。反面,康和3(1101)年に嫡男義親が九州で濫行し,翌年には隠岐に配流され,嘉承1(1106)年にも3男義国と弟義光らが東国で合戦し,朝廷から召喚を命ぜられるなど,一族の不祥事が相次ぎ苦境に陥る。その最中に死去。権中納言藤原宗忠はその死を悼んで「誠に大将軍に足る」と評したが,のちに「武士の長者として多く罪無き人を殺す」と非難も記している。義家は武家棟梁として大きく評価されるが,その武力には畿内周辺を基盤とする軍事貴族層が目立ち,諸国の武士の統率者という理解には疑問もある。また後三年の役以降の不遇も,ことさら公家の抑圧とみることはできない。<参考文献>安田元久『源義家』,元木泰雄「十一世紀末期の河内源氏」(『後期摂関時代史の研究』)

(元木泰雄)

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百科事典マイペディア 「源義家」の意味・わかりやすい解説

源義家【みなもとのよしいえ】

平安後期の武将。頼義の子。通称八幡(はちまん)太郎。前九年(ぜんくねん)の役に功をたて,1083年陸奥(むつ)守兼鎮守府(ちんじゅふ)将軍となった。後三年(ごさんねん)の役の鎮定後は,私財をもって将士をねぎらい東国に源氏の基礎を築いた。〈天下第一武勇之士〉と呼ばれて名声高く,諸国の在地有力者が競って田畑を寄進,1091年朝廷はそれを禁止するほどであった。
→関連項目金沢柵鎌倉景政清原家衡清原武衡前九年・後三年の役新田氏藤原清衡

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源義家」の意味・わかりやすい解説

源義家
みなもとのよしいえ

[生]長暦3(1039).河内
[没]嘉承1(1106).7.4.
平安時代後期の武将。父は頼義。母は平直方の娘。幼名,源太丸。八幡太郎と称した。父に従って前九年の役で功をあげ,康平6 (1063) 年従五位下,出羽守に任じられた。のち陸奥守,鎮守府将軍となり,陸奥で清原氏一族の争いを鎮定した (→後三年の役 ) 。朝廷はこれを私闘と判定して賞を与えなかったので,義家は随従した武士に私財を恩賞として与えた。そのため,関東の武士は後代まで源氏に従い,義家は天下第一の武人として名声を得,下野,相模,武蔵,伊予,河内,信濃などの国守,左近将監,左衛門尉,兵部大輔,左馬権頭を歴任して,承徳2 (98) 年正四位下となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源義家」の解説

源義家
みなもとのよしいえ

1039~1106.7.-

平安後期の武将。頼義の長男。母は平直方の女。八幡太郎と称する。前九年の役に父に従い,その功により1063年(康平6)従五位下,出羽守に任じられた。83年(永保3)陸奥守・鎮守府将軍。後三年の役に介入し,清原(藤原)清衡(きよひら)を援助して鎮圧。朝廷は私闘とし行賞を認めなかったため,私財を将士に提供。これにより武家の棟梁としての名声はかえって高まり,東国武士団との主従結合は強化された。また荘園の寄進が相ついだため,朝廷は92年(寛治6)義家が立てた荘園を禁じる宣旨を発布。98年(承徳2)正四位下に叙され院昇殿を許されたが,晩年は嫡子義親が追討されるなど,朝廷内で苦しい立場におかれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源義家」の解説

源義家 みなもとの-よしいえ

1039-1106 平安時代中期-後期の武人。
長暦(ちょうりゃく)3年生まれ。源頼義(よりよし)の長男。前九年の役で父とともに活躍。のち陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍となり,後三年の役で清原氏の内紛を鎮圧,東国に源氏の基盤をきずいた。天下第一の武勇の士とされ,衣川の合戦での歌のやりとり,雁(かり)の列の乱れに伏兵をみやぶるなど伝説がおおい。嘉承(かじょう)元年7月4日死去。68歳。通称は八幡太郎。
【格言など】吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな(「千載和歌集」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「源義家」の解説

源義家
みなもとのよしいえ

1039〜1106
平安後期の武将
石清水八幡宮で元服し,通称八幡太郎。頼義の長男。前九年の役(1051〜62)のとき,父に従って活躍し,以後諸国の受領を歴任し,のち大江匡房 (まさふさ) に兵法を学んだ。'83年陸奥守兼鎮守府将軍として後三年の役を鎮定。乱後,朝廷が私闘とみなして恩賞を与えなかったので,義家が私財をもって将士をねぎらったので臣従する者多く,源氏が東国に地盤を築く基をつくった。'98年武士として初めて院の昇殿を許可された。

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世界大百科事典(旧版)内の源義家の言及

【安倍貞任】より

…しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵と敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。源義家が〈衣のたてはほころびにけり〉とうたいかけ,貞任が〈年をへし糸のみだれのくるしさに〉とこたえたという故事は,衣川柵脱出のときのことという。享年は44歳ともいう。…

【大江匡房】より

…その多忙な官人生活の中で〈忙しきはやや閑あるにしかず〉という詩序を書いて,隠逸風雅の生活に思いをはせていた。前九年の役後,復命する源義家を〈器量はよき武士の,合戦の道を知らぬよ〉と評して,その兵法の師となった逸話は有名である。政治家としては故実先例を重んじ,儒教主義的な面をもつが,生活者としては老荘的な一面を示している。…

【兜町】より

…兜塚(現在の兜神社内)の由来については次のような話が伝えられている。1050年(永承5)ころ,源義家は前九年の役に大軍をひきいて奥州に向かう途中,このあたりで暴風雨に見舞われ,鎧(よろい)1領をとって海中に投じ,竜神に手向けて難をのがれた(これにちなみ,この所を鎧ヶ淵と呼ぶようになったという)。義家は奥州征伐凱陣のとき,先の報賽(ほうさい)のため,また東夷鎮護のためとして,自らの兜を埋めて塚を築いた(のちに里人が義家の霊を鎮める祠を建て,これが兜神社になったと伝えられている)。…

【後三年の役】より

…1083年(永保3)から87年(寛治1)まで,陸奥守源義家と清原一族の間で戦われた乱。清原氏ははじめ出羽国仙北3郡の豪族であったが,前九年の役のあとで安倍氏の旧領の奥6郡をあわせて,奥羽最大の勢力になった。…

【清和源氏】より

…清和天皇の皇子・皇孫である賜姓源氏とその子孫。そのうちで最も栄え,清和源氏の代表的存在と見られたのは,第6皇子貞純親王の皇子経基王の系統である。
[経基王系の発展]
 経基王は武蔵介として平将門の乱の鎮定に努力し,961年(応和1)に源姓を与えられた。その子満仲は摂津守となり,また摂津国多田地方(現,兵庫県川西市)に開発領主として土着し,多田荘を経営して多田院を創立した。なおこの満仲と経基との関係には若干の疑問も残されているが,《尊卑分脈》の系図にしたがって父子関係を認めるのが現在の定説である。…

【勿来関】より

…《枕草子》の〈関は〉の段にも名がみえる。源義家の〈吹く風をなこその関と思へども道も狭(せ)に散る山桜花〉(《千載集》巻二)は,後三年の役の際,この地での詠歌と伝えられて有名。【大沢 正敏】。…

【難太平記】より

…内容は,今川氏の出自,今川氏の先祖の事跡,特に鎌倉幕府の滅亡から南北朝動乱期における今川氏一族の活躍,今川氏の守護職や所領の由来,将軍足利義満に対して謀反を図る鎌倉公方(くぼう)足利満兼や大内義弘と了俊の関係などが書かれている。なかでも〈7代の孫に生まれかわって天下を取る〉という源義家の置文(おきぶみ)が足利氏に伝わり,7代目の足利家時は事が成就しないため〈3代のうちに天下を取らせたまえ〉という置文を書き残して切腹したこと,そして,天下を取ったのはこの発願によったと足利尊氏・直義(ただよし)兄弟が言ったという逸話が有名である。《群書類従》所収。…

【源義綱】より

…平安後期の武将。源頼義の次男,源義家の弟。母は義家と同じ上野介平直方の娘。…

※「源義家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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