平安後期の武将。源頼義の長男。母は上野介平直方の娘。石清水(いわしみず)八幡宮で元服し〈八幡太郎〉と号した。前九年の役に父に従って参戦,勲功により1063年(康平6)従五位下出羽守となり,やがて下野守に転任した。70年(延久2)には陸奥で藤原基通を追捕(ついぶ),その後京に戻り,主家藤原摂関家の警衛や京中の治安維持の任に当たった。このころ〈武勇の輩(ともがら)〉といえばほとんど源氏,とくに義家一党を指すほどに源氏の武力は成長していた。在京中義家は大江匡房(まさふさ)に兵法を学んだという。83年(永保3)陸奥守兼鎮守府将軍として赴任,任国に起こった清原氏の内紛を私兵をもって鎮定した(後三年の役)。この際義家の弟義光が兄の苦戦を聞いて馳参したことは有名。乱後,朝廷はこの争乱を私闘と断じて恩賞を行わず,乱平定の翌88年(寛治2)には義家の陸奥守を解任した。しかしこの戦乱を通して義家と東国武士間の主従結合が強化され,義家は〈天下第一武勇之士〉と評されるに至った。義家の名声を頼って諸国の在地有力者がその田畠を義家に寄進したため,朝廷は91年(寛治5)にこれを禁止したほか,その翌年には義家構立の荘園の停止(ちようじ)を命じている。98年(承徳2)になってようやく陸奥守時代の功過が定められ,正四位下に叙されて院(白河)の昇殿を許された。しかしこの前後に弟源義綱との内紛や,子源義親(よしちか)の配流(はいる)事件などがあり,苦しい立場の中で没した。この後,義親追討を通して平正盛が台頭することとなる。
〈武略神通の人〉といわれた義家については伝承もきわめて多く,とくに全国各地の八幡神社には義家伝説が多数伝えられている。すでにその生誕に関して,父頼義が八幡宮に参詣したとき夢告により宝剣を得たが,その同じ月に妻が懐胎し,生まれたのが義家であったといわれている。そのほか,《古今著聞集》《古事談》や《陸奥話記》《奥州後三年記》《源平盛衰記》などの説話や軍記物に所伝が頻出する。有名なものとしては,前九年の役の衣川(ころもがわ)の戦で敗走する安倍貞任(さだとう)に〈衣のたては綻(ほころ)びにけり〉とうたいかけたところ,貞任が〈年を経し糸のみだれのくるしさに〉と答えたので,その教養に感じて矢をおさめたという話(《陸奥話記》),京へ帰って貞任討伐の自慢話をしたところ大江匡房に〈惜しむらくは兵法を知らず〉と言われ,かえって喜んで匡房に弟子入りして兵法を学んだこと,そして〈兵野に伏すとき,雁列を破る〉との兵書の教えから,後三年の役では斜雁の列の乱れをみて伏兵を知ることができたとの話(《奥州後三年記》)などがあげられる。
義家伝説を大別すると,(1)戦闘での武勇伝と,従者や武勇之仁に対する武将としての思いやりを描いたもの,(2)そこから派生して義家の名や声を聞いただけで猛悪な強盗も逃げ出すというような,〈同じき源氏と申せども,八幡太郎は恐ろしや〉(《梁塵秘抄》)に発展する類のもの,(3)さらに義家によって物の怪(もののけ)や悪霊さえも退散するという神格化された武勇神とでもいうべき義家像を描いたもの,の3種がある。
執筆者:飯田 悠紀子
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平安後期の武将。河内(かわち)源氏の嫡流で頼義(よりよし)の長子。母は上野介(こうずけのすけ)平直方(なおかた)の女(むすめ)。7歳の春、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の宝前で元服し、「八幡太郎(はちまんたろう)」と号した。前九年の役に、父頼義に従って出陣し、安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)父子と戦い、1062年(康平5)貞任を衣川関(ころもがわのせき)(岩手県)で破り、ついで厨川柵(くりやがわのき)で滅ぼし、その功によって従(じゅ)五位下出羽守(でわのかみ)に任ぜられた。
この前九年の役における奮戦によって、一躍、武勇の名を天下に広め、『陸奥話記(むつわき)』などにその合戦のようすが描かれるに至る。検非違使(けびいし)や左衛門尉(さえもんのじょう)として僧兵の嗷訴(ごうそ)の鎮圧などに活動するとともに、下野(しもつけ)、相模(さがみ)、武蔵(むさし)、河内などの国司を歴任し、83年(永保3)陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍になった。そのとき、奥羽の豪族清原(きよはら)氏に内紛が起こり、清原真衡(さねひら)と同家衡(いえひら)・藤原清衡(きよひら)とが抗戦状態になった。義家は真衡を援助してこの内紛に介入し、真衡の死後、家衡と清衡が対立すると、86年(応徳3)清衡を助けて自ら数千騎を率いて家衡を攻撃した。義家は、家衡の激しい抵抗と飢寒のために苦戦したが、ついに87年(寛治1)金沢柵(秋田県)を攻略して家衡を討った。これが後三年の役である。
この戦いにあたって、義家は清原氏追討の官符を朝廷に求めたが、朝廷は義家による奥州征覇の私戦とみなして、追討の官符も恩賞も与えなかった。そのため義家は自らの私財をもって麾下(きか)の将兵の功に報いた、と『奥州後三年記』は伝えている。
こうした義家の行為と奮戦の武勇によって武士の信望を集め、東国における源氏の勢力は著しく進展した。やがて、諸国の武士や百姓のなかで義家に荘園(しょうえん)を寄進する者も多くなり、義家は「天下第一武勇之士」などと称され、白河(しらかわ)院政を支える軍事力の中核となって活動し、98年(承徳2)には院の昇殿を許されるまでになった。しかし一方で、院や貴族は、義家の勢力が急激に増大するのに警戒心を強め始め、91年(寛治5)義家の郎党と弟義綱(よしつな)の郎党との所領争いから義家と義綱の戦闘が惹起(じゃっき)されようとすると、朝廷は義家の入京を制止し、諸国の百姓が義家に荘園を寄進するのを禁じる宣旨(せんじ)を出した。その後も、朝廷はできるだけ義家の勢力が拡大するのを抑えて、弟義綱や平正盛(まさもり)を重用する方針をとった。このため1106年(嘉承1)7月、義家が没すると一族内部に深刻な後継者争いが生じて源氏の勢力が没落し始め、かわって平正盛・忠盛(ただもり)らの平氏が台頭してくるのである。
[田中文英]
『安田元久著『源義家』(1966・吉川弘文館)』
(元木泰雄)
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1039~1106.7.-
平安後期の武将。頼義の長男。母は平直方の女。八幡太郎と称する。前九年の役に父に従い,その功により1063年(康平6)従五位下,出羽守に任じられた。83年(永保3)陸奥守・鎮守府将軍。後三年の役に介入し,清原(藤原)清衡(きよひら)を援助して鎮圧。朝廷は私闘とし行賞を認めなかったため,私財を将士に提供。これにより武家の棟梁としての名声はかえって高まり,東国武士団との主従結合は強化された。また荘園の寄進が相ついだため,朝廷は92年(寛治6)義家が立てた荘園を禁じる宣旨を発布。98年(承徳2)正四位下に叙され院昇殿を許されたが,晩年は嫡子義親が追討されるなど,朝廷内で苦しい立場におかれた。
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…しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵と敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。源義家が〈衣のたてはほころびにけり〉とうたいかけ,貞任が〈年をへし糸のみだれのくるしさに〉とこたえたという故事は,衣川柵脱出のときのことという。享年は44歳ともいう。…
…その多忙な官人生活の中で〈忙しきはやや閑あるにしかず〉という詩序を書いて,隠逸風雅の生活に思いをはせていた。前九年の役後,復命する源義家を〈器量はよき武士の,合戦の道を知らぬよ〉と評して,その兵法の師となった逸話は有名である。政治家としては故実先例を重んじ,儒教主義的な面をもつが,生活者としては老荘的な一面を示している。…
…兜塚(現在の兜神社内)の由来については次のような話が伝えられている。1050年(永承5)ころ,源義家は前九年の役に大軍をひきいて奥州に向かう途中,このあたりで暴風雨に見舞われ,鎧(よろい)1領をとって海中に投じ,竜神に手向けて難をのがれた(これにちなみ,この所を鎧ヶ淵と呼ぶようになったという)。義家は奥州征伐凱陣のとき,先の報賽(ほうさい)のため,また東夷鎮護のためとして,自らの兜を埋めて塚を築いた(のちに里人が義家の霊を鎮める祠を建て,これが兜神社になったと伝えられている)。…
…1083年(永保3)から87年(寛治1)まで,陸奥守源義家と清原一族の間で戦われた乱。清原氏ははじめ出羽国仙北3郡の豪族であったが,前九年の役のあとで安倍氏の旧領の奥6郡をあわせて,奥羽最大の勢力になった。…
…清和天皇の皇子・皇孫である賜姓源氏とその子孫。そのうちで最も栄え,清和源氏の代表的存在と見られたのは,第6皇子貞純親王の皇子経基王の系統である。
[経基王系の発展]
経基王は武蔵介として平将門の乱の鎮定に努力し,961年(応和1)に源姓を与えられた。その子満仲は摂津守となり,また摂津国多田地方(現,兵庫県川西市)に開発領主として土着し,多田荘を経営して多田院を創立した。なおこの満仲と経基との関係には若干の疑問も残されているが,《尊卑分脈》の系図にしたがって父子関係を認めるのが現在の定説である。…
…《枕草子》の〈関は〉の段にも名がみえる。源義家の〈吹く風をなこその関と思へども道も狭(せ)に散る山桜花〉(《千載集》巻二)は,後三年の役の際,この地での詠歌と伝えられて有名。【大沢 正敏】。…
…内容は,今川氏の出自,今川氏の先祖の事跡,特に鎌倉幕府の滅亡から南北朝動乱期における今川氏一族の活躍,今川氏の守護職や所領の由来,将軍足利義満に対して謀反を図る鎌倉公方(くぼう)足利満兼や大内義弘と了俊の関係などが書かれている。なかでも〈7代の孫に生まれかわって天下を取る〉という源義家の置文(おきぶみ)が足利氏に伝わり,7代目の足利家時は事が成就しないため〈3代のうちに天下を取らせたまえ〉という置文を書き残して切腹したこと,そして,天下を取ったのはこの発願によったと足利尊氏・直義(ただよし)兄弟が言ったという逸話が有名である。《群書類従》所収。…
…平安後期の武将。源頼義の次男,源義家の弟。母は義家と同じ上野介平直方の娘。…
※「源義家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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