日本大百科全書(ニッポニカ) 「身分統制令」の意味・わかりやすい解説
身分統制令
みぶんとうせいれい
身分制度は、階級社会の社会的秩序を維持・強化するためにつくられたものである。わが国近世の封建的身分制度が創出されたのは豊臣(とよとみ)政権期のことである。羽柴(はしば)(豊臣)秀吉は、1582年(天正10)太閤(たいこう)検地に着手、名主百姓(みょうしゅびゃくしょう)など土豪に対して、農業から離脱するか、農業に専念するか、二つに一つを選択させ、下人(げにん)・名子(なご)など隷属農民を土豪の支配から自立させ、農民を直接に把握し、土地に束縛する政策を打ち出した。また秀吉は、1588年刀狩令(かたながりれい)を発し、農民から武器を没収した。検地と刀狩は武士と農民との区分を明確にし、農民を被支配身分として固定させる政策であった。秀吉はさらに、1591年京都に地子(じし)(田畑・屋敷に対する賦課)を免許する法令を出し、公家(くげ)・寺社など中世的な領主の地子徴収権を否定して、幾重にもなっていた土地所有関係を改め、都市における封建的土地所有権の確立を目ざした。そして同年、身分統制令を発布して、侍(さむらい)・中間(ちゅうげん)・小者(こもの)が農民・町人になったり、農民が商人・職人になるといった、身分の転換を禁止した。このようにして武士と農民・町人の身分の固定化が図られたのである。さらに98年(慶長3)には、大名は転封の際、家臣をすべて新領に従えていかなければならないとし、検地帳に記載されている農民を連れていってはならないとする布令が秀吉の名で出された。
検地、刀狩、身分統制令などによりしだいに整えられていった封建的身分制度は、江戸時代になってきわめて牢固(ろうこ)なものとなった。平民身分の農工商のうち、形式上、農は上位とされたが、年貢負担者である農民は実際上はもっとも厳しく武士に支配・統制された。平民身分の下には穢多(えた)・非人(ひにん)など賤民(せんみん)身分があって、厳しい差別を受けた。身分統制はある時点で一気に確立されたものではないが、豊臣秀吉による1591年の法令がそのための重要なステップとなったことはまちがいない。
[成澤榮壽]