武装権を武士身分に限定しようとする豊臣(とよとみ)政権の身分政策。刀かり、刀駈(かたなかり)、武具狩(武具駈)、道具かり、武具改(あらため)、刀尋(かたなたずね)ともいう。近世社会を通じて貫徹した民衆の武装解除令として、鎖国とともに、世界の歴史にも例のない日本史の特質を示すものとして知られてきたが、民間の武器が絶滅された事実はなく、その本質は、もともと自立した社会成員の身分標識であった刀の使用を武士のみに限定公認しようとする、身分制の確立策にあったとみられる。
その早い例としては、1576年(天正4)に柴田勝家(しばたかついえ)が越前国(えちぜんのくに)(福井県)で行った「刀さらへ」があるが、その実態は未詳である。豊臣刀狩令の初見は、1585年4月に紀伊国(和歌山県)の占領政策の一環として出された「在々百姓等、自今以後、弓箭(ゆみや)・鑓(やり)・鉄砲・腰刀等停止(ちょうじ)せしめおわんぬ、しかる上は、鋤鍬(すきくわ)等農具をたしなみ、耕作をもっぱらにすべきものなり」という指令であり、刀狩令の原型となった。その対象は、農民から、高野山(こうやさん)、根来寺(ねごろじ)、多武峯(とうのみね)など大寺院の僧侶(そうりょ)にも及び、「兵具ヲカル」ことが強行された。翌年7月には山城国(やましろのくに)(京都府)の農村や青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)領にも「刀かり」が行われた。
全国にわたる刀狩令(三か条の条書、秀吉朱印状)が出されたのは1588年7月である。その主文は「諸国百姓等、かたな・わきざし・ゆみ・やり・てつはう、その外武具のたぐひ所持候こと、堅く御停止候」に始まり「みぎ武具悉(ことごと)くとりあつめ進上いたすべきこと」で終わる第一条であるが、さらに、取り上げた武器は百姓の今世・来世の幸福を祈って新たな大仏(方広寺)建立のくぎ・かすがいとして活用する、と説得して、武器の没収を正当化し(第二条)、あわせて、先の紀州刀狩令を受けて、「百姓は農具さへもち、耕作を専らに仕り候へば、子々孫々までも長久に候」(第三条)と農民身分のあり方を積極的に指し示すなど、もっぱら百姓を対象として明記しているところに身分政策としての特徴がある。その実施は、大名に命じて、その領域単位に、村ごとに「おとな百姓共にせいし(誓約書)をさせ」て武器とくに刀・脇差(わきざし)を重点的に差し出させ、それをまとめて秀吉の奉行(ぶぎょう)に提出させるという方式で、数年間にわたって、陸奥(むつ)から薩摩(さつま)(鹿児島県)まで広く実施され、朝鮮侵略のための武器調達も行われたとみられる。発令の40日後、秀吉の奉行の出した加賀(石川県)江沼郡の武具請取状の内訳は、刀1073腰、脇差1540腰、鑓160本、こうがい500本、小刀700に上った。しかし、刀狩の実施には多くの例外措置が講じられていた。「町人、田畠作り申さず候者には、人指しにて、以来は刀・わきざし御もたせあるべき」として、特定の町人には刀の所持を許し、また「神事の時ばかり、かし遣わされ候様に」といい、武器ではなく祭器として保管することを許可したり、「しし(鹿・猪)おおく候あいだ、則(すなわち)やり十本ゆるし置」といい、害獣駆除の農具として村ごとに免許したり、治安の状況によっても認可した。すなわち、大名による免許制の形をとりながら、さまざまの名目で、農村や民衆の間に刀や脇指・鉄砲をはじめ多数の武器の保有が公認された。
このように、原則として被支配階級の武器所持を禁止したうえで展開される、帯刀を中心とした広範な身分別・用途別の武器所持の免許制のあり方こそは、身分法令としての刀狩令の特質をよく現している。ただし、中世のように民衆が武器を紛争解決の手段として自ら使用することは、刀狩令に先行する豊臣政権の喧嘩(けんか)停止令によって厳禁された。近世に継承されたのも、普通いわれるような民間の武器絶滅策ではなく、前述の武器免許制と喧嘩停止令であり、17世紀前半までは、百姓・町人の刀や脇差についても、その長さ、鞘(さや)の色、鍔(つば)の形などの規制は行われても、所持そのものが禁止された形跡は認められない。
[藤木久志]
『辻善之助著『日本文化史Ⅳ』(1950・春秋社)』▽『桑田忠親「刀狩」(『豊臣秀吉研究』所収・1975・角川書店)』▽『塚本学著『生類をめぐる政治』(1983・平凡社)』▽『藤木久志「豊臣喧嘩停止令の発掘」(『UP』137号所収・1984・東京大学出版会)』
農民が所持するいっさいの武具を没収し,武装を禁止する領主側の施策。中世では百姓が武装することは禁止されておらず,去留の自由も認められていた。百姓が侍衆の被官として戦闘に参加する例も多く,土一揆,一向一揆のなかでも武器を手にして戦った。領主側も一揆鎮圧の過程で百姓からの武具没収につとめ,1576年(天正4)柴田勝家が加賀で実施した例などが知られている。85年豊臣秀吉が根来(ねごろ)・雑賀(さいか)一揆を攻略した際,百姓は鋤・鍬など農具をたしなみ,耕作をもっぱらにすべきことを命じている。同年秀吉が高野山を焼き打ちしようとした際,寺側が武具をことごとく差し出してわびごとを述べ,今後は国家安全の懇祈に専心する旨を誓約して赦免をうけている。
1588年7月8日に秀吉が発した3ヵ条の刀狩令は,諸国の百姓が刀・脇差・弓・鑓(やり)・鉄砲などの武具をもつことを厳禁し,代官・給人らにそれらを取り集めて進上すべきことを命じている。この少し前,肥後で大規模な検地反対一揆が発生した。これは,新領主の入部によって領主化の道を閉ざされた土豪・国人層が配下の名主百姓以下を率いて立ち上がったものであるが,武装した族縁共同組織の存在は,秀吉が目指す封建的統一にとって危険なものとなっていた。農民から武具を没収するという構想は,このようななかで具体化したものと思われる。秀吉は没収した武具を,おりから京都東山に建立する大仏殿の釘かすがいに用いるので,来世までもその功徳をうけることができると述べているが,興福寺多聞院の僧は〈内証は一揆停止のため〉という世間のうわさを伝えている。武具を仏へ寄進する形をとれば,二度と百姓の手もとに戻らないことになるが,そのような心理的効果が十分に計算されていた。それゆえ〈百姓は農具さへもち耕作を専らに仕り候へは子々孫々まて長久に候〉という理念がうち出される。土地と一体化して生産に従事し,領主に年貢を納入する百姓は〈国土安全・万民快楽のもとい〉であろう。その理想像が示されている。
刀狩令の発布と同じ日に,瀬戸内地方における盗船の事例を契機として海上賊船の禁令(海上賊船禁止令)が出されている。これは,領国ごとに船頭・漁師から誓紙を徴すべきことを秀吉が指示したもので,海における刀狩令にほかならない。中世以来の海賊衆は諸大名の被官となって水軍に組織されていったが,その配下で直接の労働に従事していた漁師たちは,武装解除のうえ百姓身分として確定され,小規模漁業を営む専業者となっていく。
刀狩令の実施は,秀吉から新たに知行をあてがわれ,それぞれの地域で領主権の確立につとめていた大名にとって好都合であり,たとえば加賀の溝口秀勝の領国では,わずか1ヵ月のうちに刀・脇差など4000点近くの武具が集められた。奥州のような征服地では,検地の施行とならんで武具改めが実施されている。これによって,武士と農民の身分上の支配・被支配の関係が明確化し,やがて士農工商・えた非人という厳しい身分秩序が確立されていく。
執筆者:三鬼 清一郎
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武力統制の実力行使をいうが,一般には豊臣秀吉による百姓らの所有する武器・武具を没収した刀狩政策をさす。秀吉の刀狩に先行するものとしては,1576年(天正4)越前で柴田勝家が行った刀ざらえがあり,秀吉も85年,紀州攻めののち寺院僧徒の武力行使を戒めている。88年7月,秀吉は3カ条の刀狩令を発布し,諸国の百姓が刀・脇差などの武具を所持することを禁じ,大名給人にそれらのとり集めを命じた。没収した武具は造営中の京都方広寺大仏殿の釘などに利用するとし,以後,百姓は農事に専念すべしとしている。刀狩が一揆停止を目的としたことは当時から知られていたが,百姓の自力救済の否定を目的とした身分制的な性格をもつとの見解もある。
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…こうした変化の分水嶺になったのは,秀吉が〈天下惣無事〉を唱えて推進した兵農分離の政策であり,江戸幕府もこれを受けついだ。〈天下惣無事〉とは戦国の世に終止符を打つという名目のもとに〈無事〉すなわち和平を強制するもので,これによってすべての集団は紛争を武力で解決することを禁じられ,武士以外の集団は〈刀狩〉で自力救済の手段である武器を取り上げられた。この結果,近世の庶民は自力救済の能力を欠くものとみなされ,庶民が政治向きのことに口を出すのは分に過ぎたこととされるようになった。…
…この軍隊では秀吉の動員によらない武力の私的な行使は禁止された。この原則を百姓,町人にも適用したのが〈刀狩〉であり,彼らは武器を取り上げられることで自力救済の能力を欠く身分におとしめられたのであった。 天下統一の完成後に秀吉が無謀な朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行ったのは,このようにして戦争に国民を動員することが,そのまま支配体制の構築・強化であったからにほかならない。…
…さらに軍隊を支える役割を公的義務とされた農・工・商の庶民も私戦禁止の対象とされた。1588年の刀狩は,その手段である武器を奪うことによって私戦の能力を剝奪し,紛争を自力で解決できない政治的能力を欠いた被治者として庶民を位置づけるところに,そのねらいがあった。愚民観を基礎とする支配の近世的体質の根源の一つは,ここに求められる。…
…武士身分の基本単位は〈家〉であり,〈家〉とは父子相伝を基本とする一個の団体で,個々の家の支配領域ないし所有物としての家産(所領,禄米),〈武〉という伝来の家業,一個の団体の名としての家名の統一物であったが,この家名,家業ということにかかわって苗字,帯刀が武士身分の基本的属性をなしていた。もっとも,中世には上層農民の中にみずから武装し苗字を名のる者があったが,近世に入って兵農分離,刀狩等の一連の国家の政策によって,苗字帯刀が原則として武士身分に固有の特権であることが制度的に確定される。しかし,例外があり,幕府,藩は特別の場合に士身分以外の者に苗字帯刀を許し,士身分に準ずる権威を与えていた。…
※「刀狩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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