改訂新版 世界大百科事典 「軍事顧問団」の意味・わかりやすい解説
軍事顧問団 (ぐんじこもんだん)
military assistant advisory group
軍事援助の一種で,被援助国の軍隊の訓練や育成あるいはコントロールをするために派遣される要員の一団。大国間のパワー・ポリティクスに軍事顧問団が先兵的役割を果たす例は別に目新しいことではない。たとえば1808年,ナポレオン軍がスペインに侵入した時,イギリスは軍事顧問団や武器弾薬を送り込んで,スペインのパルチザン運動を巧みに援助した。その背景に,当時,全ヨーロッパを制圧していたナポレオンのフランスに対抗する意図があったことはいうまでもなく,このスペイン遠征の失敗がナポレオンの没落を早めることになった。第2次大戦後,東西両陣営に分かれて冷戦が展開されていくなかで,軍事顧問団の存在が日常化した。日本の降伏後,南朝鮮で軍政をしいていたアメリカ軍は,李承晩政府の成立にともなって軍政を解き,撤退するにあたって,韓国軍6万5000人の訓練のため500人の軍人顧問団を残した。また,ピーク時には50万を超す大軍を投入したアメリカのベトナム介入が,まず数十人の軍人顧問団派遣から始まったことはよく知られているが,その法的根拠は東南アジア条約機構(SEATO)であった。このように軍事同盟関係にある場合はもちろん,米ソのいずれかの影響下に入ってその援助を受けるにいたった国には,援助供与国の軍事顧問団の姿が,いつのまにか,必ずといってよいほど見受けられるようになった。シャー時代のイランや中南米諸国とアメリカの関係も同様である。キューバやアンゴラやアフガニスタンとソ連の関係また然りで,それらの地域は同時に世界の紛争地点となっている。
アメリカはソ連陣営に対抗する世界政策の一環として非共産諸国に経済的・軍事的援助を与えるにあたって国内法を整備した。まず上院は1948年6月,個別的・集団的安全保障の取決めを結ぶにあたっては〈継続的かつ効果的な自助および相互援助を基礎〉とすべきことを求めるバンデンバーグ決議を採択した。これを受けてアメリカ政府は49年に相互防衛援助法を,51年には相互安全保障法(MSA)を,61年には対外援助法を制定し,各国と協定を結んでいった。日本は1954年3月8日に日米相互防衛援助協定(MSA協定)を結び,46番目の締結国となった。サンフランシスコ平和条約が1952年4月28日に発効すると,占領軍は駐留軍となり,次いでMSA協定が54年5月1日に発効すると同時に,駐留軍の一部が軍事援助顧問団(Military Assistant Advisory Group-Japan,略称MAAG-J)となった。その任務は,アメリカの援助が適正に運用されているかどうかを観察するにあり,団員の一部には外交特権が付与された。援助の内容は兵器供与のほか教育・訓練など非常に幅広く,顧問団の規模も大きかったが,自衛隊の整備につれて役割は縮小した。69年7月の愛知=マイヤー交換公文により相互防衛援助事務所(Mutual Defence Assistance Office,略称MDAO)に格下げされた。事務所はアメリカ大使館内にあり,国防総省直轄。84年4月末現在,軍人6人(一部に外交特権)と日本人通訳を含む職員6人の計12人で構成されている。
かつては日本も,日清・日露の両戦争の結果獲得した満蒙の特殊権益を半永久的権利に改造しようとして,第1次大戦勃発後の1915年1月18日,袁世凱中華民国大総統につきつけた有名な二十一ヵ条要求の中で,〈政治,財政および軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること〉を迫った。これは拒否されたが,のちに満州国建設にあたり,かいらい政権に同様の要求をのませている。
執筆者:八木沢 三夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報