翻訳|atomic power
原子核の崩壊や変換、核反応などに際して放出されるエネルギー。核エネルギーとも原子エネルギーともいう。原子核の中に巨大なエネルギーが潜んでいることは、20世紀の初め天然に存在する放射性元素の研究によってすでに知られていた。1905年に発表されたアインシュタインの特殊相対性理論は質量とエネルギーの同等性を明らかにした。すなわち1グラムの質量がエネルギーに変換されると90テラジュール(90×1012J)のエネルギーとなり、これは100ワットの電球3万個を1年間点灯し続けうるエネルギーに相当する(ジュールはJと表記する仕事およびエネルギーの単位)。
原子核が形成される際には、それを構成する素粒子の質量の一部が結合エネルギーに変換されて内部に蓄積されている(したがって質量欠損が生じている)ので、それが核反応に際して放出される。その大きさは化学反応のそれの数百万倍に達することが放射能の研究で知られていた。しかしマクロなスケールで大量の核反応をおこさせる方法は、中性子の発見と、それによるウラン原子核の核分裂、および核分裂連鎖反応の発見により初めて実現可能となった。この核分裂に基づくエネルギーの利用は、最初は原子爆弾として実現し、のちに原子力発電などのエネルギー利用へと移行した(以下、原子力発電または原子力発電所を略称して原発とよぶ)。また、水素などの軽い核種が融合してヘリウムなどの重い核種が生成される核融合反応は、水素爆弾として軍事利用目的で開発された。制御された核融合反応の民生利用実現は研究努力が続けられてきたが、いまだ達成されていない。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
核反応に伴って放出される核エネルギーが原子1個当り化学反応の数百万倍であるとしても、実用上有用なエネルギーとして取り出し可能となるためには、多くの原子に持続的に反応を行わせるような方法が発見されなければならない。この反応は核分裂という現象の発見によって実現することとなった。核分裂は、ウランなどの重い原子核が中性子の衝撃を受けて、ほぼ質量の等しい二つの原子核に分裂する現象である。たとえば次式のように分裂する。
この際放出されるエネルギーはラジウムのα(アルファ)崩壊の50倍程度であるが、重要なのは核分裂に伴って新たに2~3個の中性子が発生することである。したがってこのように増倍された中性子を有効に利用するならば、次々にウラン原子核の核分裂を連鎖的に行わせることが可能となる。しかし実際にこれを行うには、増倍された中性子が非分裂性の原子核に吸収されたり、外部へ散逸したりして連鎖反応が立ち消えにならないことや、逆に連鎖反応が急速に進みすぎぬように制御することが必要である。天然ウランには核分裂性のウラン235はわずか0.7%しか含まれておらず、残りの99.3%のウラン238はかえって中性子を吸収してしまう。また核分裂の際に発生する中性子の速度は速すぎる(高速中性子)ために、ウラン235原子核と衝突する確率は小さく、速度を熱エネルギー程度にまで遅くした中性子(熱中性子)のほうが核分裂はずっとおこりやすくなる。
したがって、連続的に核分裂反応を持続させるシステム(原子炉)をつくる一つの方向は、天然ウランよりもウラン235の同位体濃度を高めた濃縮ウランを用い、また、中性子の速度を減らすための軽い原子から構成される、重水や軽水(普通の水)、黒鉛などの減速材を用いて、核分裂反応を持続させる方法である。連鎖反応を制御するためには、中性子を吸収しやすい原子核(ボロン10やカドミウムなど)からなる制御材を適切に系内に入れる必要が生ずる。また連鎖反応をおこすためには、含まれる核分裂性物質の量をある程度以上に大きくし、表面から逸出する中性子の割合を小さくしなければならない。この核分裂連鎖反応維持に必要な最小限の質量を臨界量という。原子爆弾の場合には高濃縮ウランあるいはプルトニウムを瞬間的に臨界量以上に合体させることにより連鎖反応を急激に発生させ、きわめて短時間に巨大なエネルギーを放出させる。原子炉においては臨界量を超える量の核分裂性物質であるウランなどで炉心を構成する。原子炉では連鎖反応がおきている場合を臨界状態、停止している場合を未臨界という。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
1938年ドイツのO・ハーンとF・シュトラスマンによるウランの核分裂現象の発見は、それまで物質の究極構造の究明という純粋な物理学的興味の対象にすぎなかった核物理学とその成果とを、直接、巨大な核エネルギーの解放という実用問題に結び付ける契機となった。しかもその発見の時期が第二次世界大戦の前夜であったために、この巨大なエネルギーは原子兵器(核兵器)として開発されることになった。
原子兵器開発の研究は、ナチス・ドイツでは早くも1939年から、イギリスでは1940年から開始されていた。しかし第二次世界大戦の激化とともにイギリスでの研究継続は不可能となり、のちにアメリカでの原爆開発計画に合流することになった。
アメリカは、アインシュタイン、フェルミ、シラード、ウィグナーをはじめ多くのナチスに追われた亡命科学者を受け入れたこと、イギリスの研究陣が合流したこと、またその国土が第二次世界大戦中の戦災を免れたこと、もともと卓越した工業力と経済力をもっていたことなどが有利に働いて、極秘のうちにおよそ20億ドル(当時)の巨費と十数万の科学者・技術者を動員したマンハッタン計画(原爆製造計画)に成功して、1945年7月に3個の原子爆弾を完成させることができた。うち1個は同年7月16日ニュー・メキシコ州アラモゴードの砂漠での爆発実験に使用されたが、これは爆縮型のプルトニウム原爆であった。残り2個はそれぞれウラン235原爆とプルトニウム原爆であったが、前者が同年8月6日広島に、後者が8月9日長崎に投下された。
ソ連および日本でも第二次世界大戦中に原子兵器開発研究は進められていた。ソ連は大戦後の1949年には原爆を、1953年には重水素化リチウムを用いた航空機搭載可能なブースター原爆を実験した。ブースター原爆は、ソ連のサハロフが設計したレイヤー・ケーキ爆弾とよばれる、核融合材料を原爆に包み込んだ威力500キロトン相当の爆弾であり、アメリカはこれを乾式水爆と誤認するが、その基礎はすでに大戦中の研究により形成されたものである(ソ連が原子爆弾を熱源として多段階式に核融合をおこさせるテラー・ウラム型の水爆実験に成功したのは、1955年11月22日セミパラチンスク実験場においてであった)。日本では物理学者の仁科芳雄(にしなよしお)が中心となり、理化学研究所などで研究が行われたが、みるべき成果をあげる前に敗戦を迎え、成果も四散してしまった。
マンハッタン計画の遂行によって獲得された原子力技術は、原爆製造のためだけでなく、今日の原子力技術体系の骨格をなす主要な部分をすべて含んでいるといえるので、以下におもな成果を要約しておくこととする。原爆製造の鍵(かぎ)はつきつめていえば、純粋のプルトニウムと高濃縮ウランの一定量をいかにして入手するかに帰着する。
(1)プルトニウムの生産 プルトニウムの生産には原子炉が必要であり、このために核分裂連鎖反応に関する次のような諸問題――中性子の逸出、減速材の作用、同位体濃縮の効果、連鎖反応制御の方法などを研究する、要するに今日の用語でいえば原子炉物理学および原子炉工学を創設し、かつまた実際に原子炉を建設し作動させたこと。ついでそれを一挙にスケール・アップして大型のプルトニウム生産炉を建設・運転させたこと。
(2)原子炉建設に必要なウラン、減速材である黒鉛や重水などを大量に製造する技術を開発したこと。
(3)放射線からの防護手段の開発と健康管理。
(4)ウラン同位元素の濃縮 電磁分離法をはじめ、あらゆる同位体分離法が検討され、ガス拡散法を最後に成功させたこと。
(5)核燃料再処理技術の研究 沈殿分離法によるプルトニウムの抽出法が最初に確立されたこと。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
第二次世界大戦の終了とともにアメリカは原子力開発管理体制を戦時中の軍管理から文民管理に切り換えた。すなわち1946年に原子力法(マクマホン法)を採択し、それに基づいて原子力委員会(AEC)を発足させた(1947年1月)。国際的には原子兵器の「管理」を目ざすバルーク案を国連に提出したが、原水爆禁止を優先せよというソ連の反対で実現しなかった。広島・長崎への原爆投下は大戦の終結を早めたというよりは、戦後の米ソ冷戦の開始を示すものであったから、アメリカは戦後になってかえって3波にわたる核軍備の大拡張を行うこととなる。第一波は文民管理のAECの発足と同時に開始され、ワシントン州ハンフォード(マンハッタン計画が推進された地)のプルトニウム生産施設とウラン濃縮工場の改修と拡張が行われ、原子力潜水艦の開発もスタートした。第二波は1950年1月の大統領トルーマンによる水爆開発命令に始まり、1954年の水爆完成に終わる時期で、あらゆる形態の核兵器開発が促進され、ケンタッキー州パデューカに新鋭ウラン濃縮工場が建設された。第三波は1952年から1956年までで、第二波と重なっており、この時期には戦術核兵器の開発を重点に全軍核武装化が追求された。このためオハイオ州ポーツマス新濃縮工場の建設やハンフォード工場の大拡張が行われた。第一号原子力潜水艦ノーチラスは1955年に就航している。アメリカがこの3波にわたる核軍拡に注ぎ込んだ費用は138億ドル(当時)に上り、マンハッタン計画の7倍という膨大なものであった。この止めどもない核軍拡政策は、米ソの「力の均衡」を前提にした軍拡競争へと導いていった。この均衡を前提に、1953年12月アメリカ大統領アイゼンハワーは国連総会で有名な「平和のための原子Atoms for Peace」(「平和のための原子力」ともいう)計画を発表し、備蓄した濃縮ウランの供与と、国際原子力機関(IAEA)の創設を提唱し、アメリカの核戦略はいわゆる平和利用をも含む総合的戦略へと変貌(へんぼう)することとなった。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
1955年の夏にスイスのジュネーブで開かれた第1回原子力平和利用国際会議は、初めて原子力の平和利用への扉を開き、軍事機密の厚い壁に遮られていた原子力技術情報の公開を実現した。このため原子力の平和利用に関する楽天的な見通しが世界的に広まり、日本、西ドイツ、ベルギー、イタリア、スペイン、ブラジル、アルゼンチンなどの国々がそれぞれ原子力委員会を創設するに至った。このときまでに原子力技術を開発していた国は、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、カナダの5か国であった。しかし、いずれの国も他国に輸出できる原発技術を完成させていたわけではなく、1960年代前半までに輸出されたのは研究用原子炉やアイソトープ関連技術であった。ただイギリスだけが天然ウランを燃料とする黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉(コールダーホール型原子炉)による大規模な原発の建設計画を発表していたが、それを輸入したのは日本とイタリアのみで、またこのわずか2基のみが、イギリスの輸出できた商業発電炉であった。
原発の電力生産への利用は、安価な中東原油が大増産されたために抑制されていた。1963年、第3回原子力平和利用国際会議(ジュネーブ会議)が開かれたが、この機会にアメリカは、濃縮ウランの供給保証付きで、リコーバーHyman George Rickover(1900―1986)の開発した原子力潜水艦の舶用炉(加圧水型原子炉:PWR。後に沸騰水型原子炉:BWRが加わる)を発電用に改良したアメリカ型軽水炉が「実証済みproven」であることを宣伝し、世界的売り込みを図った。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
アメリカでは、第3回ジュネーブ会議以後、ゼネラル・エレクトリック社、およびウェスティングハウス社などは、海軍用原子炉の開発で蓄積した技術を基礎に、さらに新鋭石油火力発電所との競争を目標として、部品の規格化と量産化、大型化によるスケール・メリットの追求などの手法により発電単価の切下げを図り、同時にアメリカ政府の濃縮ウラン供給保証を武器に、世界的に軽水炉の売り込みを行った。売り込みの手法の一つとして「ターン・キー」方式がある。これは売り手の提示した仕様で建設し、キーを回せばすぐに稼動できるというもので、これによって利便性とコストダウンが図られた。しかしこの方式では、建設地の自然条件などを設計に反映することが困難であるため、初期に建設された数基にとどまった。なお、福島第一原発では「ターン・キー」方式を採用していたため、2011年(平成23)3月11日に日本で発生した東北地方太平洋沖地震に伴う津波被害が拡大し、原発事故につながったという指摘もなされている。
こうして1963年以降、アメリカでは「軽水炉ブーム」が巻き起こされる。しかしこのブームは長くは続かず、1976年には発注はほとんどゼロにまで落ち込むこととなる。この低迷にいっそう打撃を与えたのが1979年のスリー・マイル島(TMI)原発事故であった。アメリカ国内での原発の契約のキャンセルや建設中止はその後も続き、原子力産業界への深刻な影響を憂慮したアメリカ議会の要請により、同議会技術評価局は1984年2月に「不確実性の時代における原子力発電」と題する報告書を公表した。2000年代に入り「原子力ルネサンス」とよばれる原発復権の動きが広がり、アメリカではG・W・ブッシュ政権による新規建設へのてこ入れがなされたが、新設は進まなかった。
ドイツでは2000年、社会民主党(SPD)と90年連合・緑の党との連立政権は、稼動後30年の原発廃止等、脱原発に向けての舵(かじ)をきったが、2010年、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と自由民主党(FDP)連立政権は稼動期間の延長を決めるなど、脱原発派政策は後退した。しかし、2011年3月に日本で福島第一原発事故が起きると、メルケル政権は期間延長を撤回、8基の老朽化原発の即時停止、2022年までに残りの原発についても順次停止を決定した。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
原子力の発電以外への応用として重要な分野は、放射線やラジオ・アイソトープ(RI)の応用である。原子炉を用いて、さまざまのRIやコバルト60(60Co)などの放射線源などを大量廉価に生産できるようになったからである。2015年度の統計では、日本のRIまたは放射線発生装置の使用許可・届出事業所数は7515か所に上っている。
RIの使用形態は密封RIと非密封RIとに分けられる。前者ではニッケル63(63Ni)やトリチウム3(3T)などのガスクロマトグラフの検出器などへの利用のような計測的用途や、遠隔照射医療装置やレベル計用の60Coなどの線源としての用途がおもなものである。その他の重要な密封RIは、鉄55(55Fe)、コバルト57(57Co)、クリプトン85(85Kr)、ストロンチウム90(90Sr)、カドミウム109(109Cd)、ヨウ素125(125I)、セシウム137(137Cs)、プロメチウム147(147Pm)、ツリウム170(170Tm)、イリジウム192(192Ir)、金196(196Au)、アメリシウム241(241Am)、カリホルニウム252(252Cf)などである。これに対し非密封RIで使用量のもっとも多いのはテクネチウム99m(99mTc)である。核医学的に広く利用される核種で、親核種であるモリブデン99(99Mo)から、ジェネレーター(分離操作装置)を使って病院内で娘(むすめ)核種である99mTcを抽出・製剤化して用いる。国内で使用されているRIの大部分はイギリス、アメリカ、フランス、カナダなどからの輸入品であるが、日本でも数%程度が生産されている。金額的には核医学用の医薬品が大部分を占めている。核医学利用を大別すれば、RIをトレーサーとして体内に投与し、体外から特定臓器などの機能や形態を調べるインビボin vivo使用法と、抗原抗体反応の特異性を利用するラジオイムノアッセイ、すなわち血中や尿中の微量物質を体外で、試験管中で分析するインビトロin vitro使用法とになる。また、直線加速器、シンクロトロン、サイクロトロン、ベータトロンなどの加速器が悪性腫瘍(しゅよう)の治療などに広く用いられるようになりつつある。またCT技術と結合させたポジトロンCT診断、密封RI線源をX線源のかわりに用いるCTでの樹木の年輪の測定など、さまざまに応用されている。
放射線の利用としては、ジャガイモ、タマネギなどの発芽防止のための照射利用や、注射筒・針などの照射滅菌が実用上重要なものである。放射線のエネルギーを高分子化合物の合成や改質などに利用する放射線化学の分野は、研究としては重要であるにもかかわらず、工業的には他の方法を凌駕(りょうが)することが困難で、当初の期待とは反する状況にある。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
第二次世界大戦敗戦後の連合軍の占領下では原子力研究は禁止されていたが、講和条約の発効とともに日本学術会議などの場で原子力研究を開始すべきか否かをめぐる論争が活発に行われた。1954年(昭和29)3月2日、当時改進党に所属した中曽根康弘(なかそねやすひろ)により原子炉築造予算2億3500万円が突如国会に提出され、十分な審議もなされぬままに国会を通過した。この動きが、前年12月の国連総会でのアメリカ大統領アイゼンハワーによる演説「平和のための原子」として明らかにされたアメリカの核戦略の転換、すなわち軍事用に備蓄された濃縮ウランの提供、国際原子力機関創設の提唱、各国との原子力双務協定締結を内容とする政策変更を先取りしたものであったことは、今日では明らかである。しかし偶然にも3月1日は第五福竜丸がビキニ水域においてアメリカの水爆実験によって被災した日でもあった。この事件を契機に、日本の原水爆禁止を求める世論は燎原(りょうげん)の火のように全国民を巻き込み、3000万を超える署名が集まることとなる。一方、日本学術会議は、科学者の意向を無視して提出された原子炉予算に反対するとともに、日本の原子力研究が平和利用に限られる保証として民主・自主・公開の原子力三原則を要求する声明を発表した。1955年に公布された原子力基本法にこの三原則が取り入れられ、日本の原子力開発の基本姿勢が確立した。1956年には同時に原子力委員会が発足し、日本原子力研究所(原研)、原子燃料公社(原燃)などが設立されて開発体制が整えられた。原研では研究用原子炉JRR‐1炉およびJRR‐2炉をアメリカから導入建設し、JRR‐1炉は1957年9月臨界に達した。引き続き天然ウラン重水型のJRR‐3炉の国産化が進められ、舶用炉の遮蔽(しゃへい)試験用としてJRR‐4炉も建設された。原燃公社による人形峠(鳥取・岡山県境)をはじめとする国内ウラン資源の探査や、ウラン金属の製錬なども進められた。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
しかし一方では、研究炉の建設や運転経験の蓄積すら十分でない段階で、性急な原発の実用化が推進され、イギリスから天然ウランを燃料とするコールダーホール型原子炉を導入設置するために、主として電気事業者の出資による日本原子力発電(株)が設立された(1957)。この炉は多くの設計変更や技術的困難に遭遇し、茨城県東海村に設置された発電炉(東海1号炉)が全出力運転に到達したのは1967年であり、そのときはすでに軽水炉の導入時代に入り、敦賀(つるが)1号炉(日本原電、1966年4月)、福島1号炉(東京電力、1967年9月)、美浜(みはま)1号炉(関西電力、1967年8月)などが相次いで着工された。天然ウラン炉路線は東海1号炉だけで放棄され、以後は低濃縮ウラン燃料を用いるアメリカの軽水型炉を9電力各社が競って導入する。その後、日立(ひたち)、東芝(以上BWR)、三菱(みつびし)(PWR)などのメーカーが導入技術を基に軽水炉国産技術を確立し、以後毎年ほぼ1基の割合で建設が進められた。
しかし技術的に「実証済み」であったはずの軽水炉は1970年代~1980年代に相次ぐ故障・事故に悩まされ、稼動率は30~40%台にまで低下した。この信頼性の低さは安全性への深刻な懸念を引き起こしたが、1974年1月に暴露された日本分析化学研究所の環境放射能データ捏造(ねつぞう)事件、9月に起こった原子力船「むつ」の放射線漏れ事故と長期間の漂流事件は、原子力安全行政のずさんさを一挙に暴露することとなり、日本の原子力行政体制の再検討を余儀なくさせた。このような状況を打開すべく、三木武夫(みきたけお)内閣の下で、有沢広巳(ありさわひろみ)、田島英三(たじまえいぞう)(1913―1998)、向坊隆(むかいぼうたかし)(1917―2002)など学者を中心とするメンバーによる「原子力行政懇談会」が開催され、原子力行政の改革に関する提言を行った。その結果1978年10月、原子力安全委員会が新設され、原子力基本法の改正も行われた(原子力安全委員会は2012年9月に廃止され、新設の原子力規制委員会に移行)。しかしながらこの改革では通商産業省(現、経済産業省)が推進と規制の二つの権限を掌握する結果となり、規制の独立性が失われることになった。
その後、原子炉材料の改良、運転モードの改善(出力変動を抑えたベースロード運転)などが行われ、応力腐食割れなどによる燃料破損、蒸気発生器細管破損などの事故・故障は減少し、稼動率も向上した。なお、2011年の福島第一原発事故直前には商用原発は54基4896万キロワットと、総発電容量の20%を占めるに至った。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
軽水炉が導入される以前、原研などの日本の研究者は、動力炉(発電用原子炉)の自主的な開発を目ざしており、半均質炉、新型転換炉など、さまざまな炉型が提案され、研究が進められていた。しかし、原子力の実用化を急ぐ産業界や政治家の一部は、自主開発・基礎からの積み上げを主張して軽水炉の大量導入に批判的な原研などの研究者の姿勢に不満をもち、これを排除して、「動力炉開発(高速増殖炉開発)のナショナル・プロジェクト」を推進。1967年には原燃を吸収合併した新組織、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が設立された。このプロジェクトには大量の資金が投じられ(高速増殖炉原型炉「もんじゅ」完成までに1兆円)、メーカーへと配分された。1995年(平成7)12月、完成直前の「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生した。事故の重大さにもかかわらず、動燃は事故情報の秘匿や虚偽報告を行ったため、厳しい世論の批判を浴びた。その後も相次ぐ不祥事に動燃のあり方や体質の全面的見直しが進められ、1998年9月に解団。同年10月発足の核燃料サイクル開発機構が動燃の事業を引き継いだ。さらに2005年、一連の行政改革によって原研と核燃料サイクル開発機構は統合し、日本原子力研究開発機構となった。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
原子炉を中心に、核原料物質の採鉱に始まり、放射性廃棄物の処理・処分に終わる「核燃料のライフ・サイクル」ともいうべき一連の段階を核燃料サイクルという。原発をエネルギー産業として考える場合には、核燃料サイクルの全体について考察する必要がある。さまざまな核燃料サイクルが構想されているが、当面現実化しつつあるのはアメリカなどが採用しているワンス・スルーとよばれる使用済み核燃料をそのまま処分してしまう方法で(これはサイクルではないがワンス・スルー・サイクルとよばれることがある)、これとても放射性廃棄物の処理・処分の見通しが確定したわけではない。以下に各段階の問題点を要約しておく。
(1)ウランの採鉱と精錬 経済協力開発機構(OECD)の原子力機関(NEA)が2年ごとに刊行している『ウラン:資源、生産、需要』によれば、ウランの確認資源量はKgU(キログラム・ウラン)当り採掘コスト130ドル以下の資源が590万2900トンであった(2014年版。数値は2013年1月1日時点)。この数値は、軽水炉などのワンス・スルーだけで消費されるとするなら、石油資源よりも小さい資源であることを意味する。資源の大部分を占めるウラン238をプルトニウムに変換する増殖炉サイクルが完成してのち、石炭に匹敵する大きさの資源になるであろう。ただし、核燃料サイクルで、たとえば100万キロワットの電気出力のPWR炉の年間取替え燃料28トンを得るには、181トンの天然ウランが濃縮工場の原料として必要であり、そのためには10万トン以上の鉱石の採掘が必要である。同出力の石炭焚(だ)き火力発電所の年間石炭所要量はほぼ400万トンであるので、核燃料の重量利得は40倍程度にとどまることに留意すべきである。また、ウランの採鉱は、原子炉の重大事故の場合を除けば、核燃料サイクル中最大の放射線障害を人間に与える可能性がある。それは採鉱に伴うラドンの放出や、尾鉱(選鉱くず)の蓄積に基づく放射線障害などがその原因となる。
(2)ウラン濃縮 核兵器製造用に開発された巨大な濃縮能力により、軽水炉が原発の主流となった。初期にはおもにガス拡散法が用いられていたが、1970年代後半からは遠心分離法が主流となっている。また、化学交換法、レーザー法などの新方法が開発されつつある。これらはいずれも軍事目的に転用可能なことから、核拡散に直結する技術であることに注目する必要がある。
(3)核燃料再処理 PWRの使用済み核燃料の組成は、96%が燃え残りウラン(濃縮度は0.8%以上)、約1%がプルトニウム、約3%が核分裂生成物であり、この三つの部分を分離するのが再処理の工程である。歴史的には核兵器用プルトニウムを抽出するために開発された工程であることから、核拡散に直結していることになる。しかし原子力が未来のエネルギー資源となるためには増殖炉燃料の再処理を含む技術の確立が必要となるであろう。現在は、軍用あるいは低燃焼度のガス炉燃料などを除き、軽水炉の商業用再処理は、技術的に未確立で、採算的にも困難に遭遇している。日本は発生した使用済み核燃料の再処理の大部分をフランス、イギリスに委託していた。1993年(平成5)に着工した日本原燃(株)の六ヶ所(ろっかしょ)再処理工場は、2006年アクティブ試験(操業前の最終段階の試験)を経て、本格操業に入る予定であったが、最終部分の高レベル放射性廃棄物ガラス固化施設が故障し、その修理が困難であるため、2016年時点においても操業開始に至っていない。このため、六ヶ所再処理工場に搬出を予定していた各地の原発の使用済み核燃料は行き場を失い、各原発施設内の貯蔵施設に蓄積しており、原発によっては貯蔵施設の余裕がなくなったものも出ている。
(4)高レベル放射性廃棄物の処理・処分 高レベル放射性廃棄物の最終処分の方法は未確立である。軍事利用のためにすでに蓄積された高レベル放射性廃棄物の量は、蓄積される平和利用のそれの10倍を超えると推定されている。これらは現在大部分が鋼製タンクに貯蔵されたままである。再処理後の廃液をガラス固化体とし、ステンレス容器などに封入する方法が採用されている。国際学術連合会議(ICSU。現、国際科学会議)は最終処分法として安定な地層(岩体)への埋設について留意すべき事項を勧告しているが、地層への熱影響を緩和するために、100年程度の中間貯蔵(地上での)を推奨している。これは、再処理を行わず、使用済み核燃料のまま貯蔵する場合にも適用できる。いずれにせよ、もっとも困難な問題は、科学的に安定な閉じ込めが予見されえたとしても、社会的受容が得られるか否かにある。
日本で発生した使用済み核燃料のうち、軽水炉燃料5000トンおよびガス炉(コルダーホール型原子炉)燃料1500トンが、イギリスおよびフランスに送られ海外再処理が行われた。これらから発生した高レベル放射性廃棄物のガラス固化体が返還されている。フランスからは2007年3月までに1310本の固化体が返還済みであり、イギリスからは2010年3月以降、8000トンの返還が始まっている。これらは一時的に六ヶ所村の高レベル放射性廃棄物管理センターに保管され、のちに地層処分されることになっている。
(5)再処理工場のプルトニウム 再処理工場で分離精製されたプルトニウムもまた大量に蓄積されている。2014年末時点で、国内保管分1万0835キログラム、海外保管分3万6974キログラム、合計4万7809キログラムあり、本来使う予定であった高速増殖炉が稼動していないため、行き場を失って蓄積量が増加している。政府はこれをMOX燃料(ウラン・プルトニウムの混合酸化物燃料)として軽水炉で燃やすこと(プルサーマル)を推進しようとしているが、これを使い切ることは容易ではない。
(6)低レベル放射性廃棄物の処理・処分 容積の小さい高レベル放射性廃棄物と対比すれば、低レベル放射性廃棄物の放射能レベルは低いかわりに容積が大きいことが特徴である。日本でも、2008年3月末時点ですでに60万本を超えるドラム缶(200リットル入り)が貯蔵されている。海洋投棄と陸地処分が方策として考えられていたが、太平洋への投棄は政治的・社会的理由で困難となり、陸地処分が検討されている。2016年1月時点で、青森県六ヶ所村に建設された低レベル放射性廃棄物埋設センターには、約28万本のドラム缶が埋設され、最終的には300万本規模に拡張される予定となっている。
(7)輸送問題 たとえば核燃料サイクルの各段階は、実際には輸送手段で結ばれている。とくに使用済み核燃料の海外輸送、返還される高レベル放射性廃棄物固化体などの高放射性物質や、プルトニウムの輸送などは、核拡散防止問題も絡んで複雑な社会問題となっている。1984年夏に生じた六フッ化ウランを積んだモン・ルイ号(フランス)の沈没は、秘密のベールに包まれていた核物質輸送の危険性の一端を明らかにした。また、1987年2月に核物質防護に関する条約(核物質防護条約。核物質防護はフィジカル・プロテクションphysical protectionといい、略称はPP)が発効し、プルトニウムの輸送などに対しては厳重な防護措置が必要となった。こうして1992年11月フランスから約1トンのプルトニウムを積んだ輸送船「あかつき丸」の護衛のために、新たに海上保安庁の巡視船「しきしま」が163億円を投じて建造された。しかし「しきしま」の軽武装では核ジャック対策には不十分であるとして、通過海域の担当アメリカ海軍にアメリカ国防省が万一の場合の対応を通達したという。
2012年、日本学術会議は原子力委員会からの審議依頼を受けて、「高レベル放射性廃棄物の処分について」と題する回答を発表した。このなかで日本学術会議は「高レベル放射性廃棄物の処分に関する政策の抜本的見直し」「科学・技術的能力の限界の認識と科学的自律性の確保」などをあげて、地層処分の実施を急ぐことにブレーキをかけている。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
原子力技術の開発が軍事利用から始まった歴史が示すように、いわゆる平和利用技術の世界的拡散は必然的に核情報と核分裂性物質の拡散をも意味する。核兵器保有国も、アメリカ、ロシア(ソ連時代を含む)、イギリス、フランス、中国の5か国のほか、1974年にインド、1998年にはインドとパキスタン、2006年には北朝鮮(朝鮮中央通信が発表)が相次いで核実験を行うなど増加しつつある。1970年にアメリカとソ連(当時)の合意のもとに核不拡散条約(NPT)が成立し、2015年2月時点では191か国が加盟するに至った。しかし同条約は一方で核兵器保有国に核軍縮の実行を義務づけてはいるものの、米ソ間の核軍拡競争(核兵器の垂直拡散)はとどまるところを知らず、他方では核拡散(水平拡散)のおそれがあるとして非核兵器国の原子力平和利用にさまざまな制限を設ける結果となるという大きな矛盾を内包している。加盟国は核物質の計量管理制度を設けるとともに、国際原子力機関の査察を受け入れることなどを内容とする保障措置協定を締結する義務を負わねばならない。しかし1974年インドの行った核爆発実験はNPTの有効性に疑問を抱かせることとなり、とくにアメリカの受けた衝撃は大きかった。その結果アメリカの核不拡散政策は著しく強化され、とくにカーター政権時代になると核不拡散法が国内法として制定され、核物質や核技術の輸出に強い規制が加えられるとともに、高速増殖炉計画の中止や商業再処理の禁止などが各国に呼びかけられた。アメリカの提供する濃縮ウランを再処理する場合にはアメリカの同意が必要という日米原子力協定の条項を盾に、動燃(当時)の東海再処理工場の運転をめぐって日米間で長期にわたる核燃料交渉が行われるに至ったのもそのためである。また核燃料サイクルを核拡散防止の観点から国際的に評価し直すことを目的として、国際核燃料サイクル評価会議(INFCE:International Nuclear Fuel Cycle Evaluation)が1977年から1980年2月にかけて開かれ、最終的には59か国、6国際機関が参加した。その結論は玉虫色の典型ともいうべき内容であるが、保障措置の改良や強化、プルトニウム貯蔵や使用済み核燃料管理などの新国際制度を設けることなどがうたわれている。
このほか核関連物質・資材などの非核兵器国への輸出に際して適用される規制規準として1975年にロンドン・ガイドラインが定められた。またPP条約が1980年3月に署名のため開放され、日本は1988年11月に加入した。
核軍拡を放置したままのNPT体制、ひいては原子力平和利用の矛盾は深まる一方である。
[中島篤之助・舘野 淳 2016年10月19日]
1960年代後半から大量に原発が建設されたアメリカでは、1970年代初頭に原発をめぐる環境問題・安全論争が激化した。1971年コロンビア特別区の控訴裁判所は、原子力委員会(AEC)が国家環境政策法(NEPA:The National Environmental Policy Act)に違反しており、原発建設に際しては環境影響評価書を提出すべきであるとの判決を下した(メリーランド州にあるカルバート・クリフス原発建設に伴う裁判であったことから、「カルバート・クリフス判決」とよばれる)。AECはこれに従ったが、クラス9とよばれる巨大事故についての評価書は提出しなかった。クラス9事故は、のちにシビアアクシデント(過酷事故)とよばれるようになる。環境保護庁(EPA:Environmental Protection Agency)はクラス9事故に対しても提出するよう求めたため、AECはこのような事故はきわめてまれにしか起きないことを証明する必要に迫られた。このようにしてつくられたのがラスムッセン報告である。同報告は、アメリカの物理学者ラスムッセンNorman Carl Rasmussen(1927―2003)が作成したもので、原発事故で人が死ぬ確率は、隕石(いんせき)の落下によって死ぬ確率よりも小さいと主張されていた。これに対して、アメリカの科学者団体「憂慮する科学者同盟」(UCS:Union of Concerned Scientists)は、同報告では、地震などで各種安全装置が一斉に破壊される共通要因事故を考慮していないなど、多くの問題があることを指摘した。福島第一原発事故ではまさに、地震・津波によりこの共通要因事故が発生した。
また当時、配管破断などで原子炉内の冷却材が漏出した場合(冷却材喪失事故)に、炉心を冷却する緊急炉心冷却装置(ECCS)によってかならずしもうまく炉心冷却ができない可能性があるという試験結果が発表され大きな問題となった(ECCS問題)。さらに1990年、確率論の手法を用いて発電所の停電(ステーション・ブラックアウト)が炉心溶融事故の大きな要因になりうることが指摘された。福島第一原発事故では、地震による外部電源の喪失、津波による非常用ディーゼル発電機の機能喪失でステーション・ブラックアウトが起き炉心溶融に至った。
このように安全論争や研究に基づく警告がなされるなかで、現実に1979年スリー・マイル島原発事故、1986年チェルノブイリ原発事故の二つのシビアアクシデントが発生した。シビアアクシデントとは設計基準事故(設計者があらかじめ事故を想定しこれに対応するために設置した安全装置で収束できる事故)を超えて、炉心に重大な損傷を生じる事故である。この二つの事故を受けて、アメリカやヨーロッパでは、シビアアクシデント対策の重要性が強調され、その対応が法制化されるに至った。これまでの多重防護の三層の壁(異常発生の防止、異常の事故への拡大防止、事故の影響を最小限に食い止める)に加えて、シビアアクシデント対策の二層の壁(著しい炉心損傷防止、放射能の放出抑制・避難など)を加えた五層の壁(レベル)をもつ深層防護に基づく安全対策の法規制が行われるようになった。このようにして世界の原発はシビアアクシデントの発生を前提にして稼動している。
[舘野 淳 2016年10月19日]
各地に原発が建設されるようになる1970年代初頭、日本でもその安全性をめぐって多くの議論が行われた。軽水炉の大量導入・建設を批判した原研などの研究者の発言に対して政府・原研当局は強権的抑圧を行い、人事考課などでこれを組織的に排除したが、これが、福島第一原発事故後に「原子力村」として厳しく批判された、日本の、異論を排除した推進体制、産官学癒着体制へとつながっていく。さらに、日本科学者会議、高木仁三郎(じんざぶろう)(1938―2000)を中心とした原子力資料情報室や、京都大学原子炉実験所の研究者、あるいは各地の住民組織などが、安全性に問題を抱え、放射性廃棄物の処分を先送りしたままの軽水炉の拡大路線に対して、さまざまな批判を行った。政府は形式的な公聴会を開催して住民の意見を聞くなどの措置をとりながら、原発の拡大を着々と進めていった。
1988年から1990年、規制問題などを検討していた原子力安全委員会・共通問題懇談会の席上で、スリー・マイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故ののち海外の動向を考慮した学者グループが、シビアアクシデント対策を日本でも取り入れて法整備を行うことを提案したが、東京電力・関西電力などの事業者が強硬に反対したため、法的規制としては実施できず、事業者の自主対応に任せることとなった。法的規制のもと、シビアアクシデント対策が十分になされていれば、福島第一原発事故の際にどれほど被害を減らすことができたかは、一概にはいえないが、少なくとも注水や格納容器ベントによる減圧などがより速やかにできて、炉心損傷に至らなかった可能性もゼロではなかったと考えられる。国会事故調査報告書はこのような規制のあり方を、「東電・電事連の〈虜(とりこ)〉となった規制当局」と表現している(東電は東京電力、電事連は電気事業連合会の略)。
いったん熱の制御を失うと、短時間で炉心溶融へと突き進む軽水炉という原子炉、炉心溶融が起きると大量の放射能が放出され、住民が重大な被害を受ける原子力というエネルギーシステム、危険物を扱いながら、その自覚のなかった電気事業者、その事業者に対する規制を怠った政府・規制当局、こうした要因が重なって福島第一原発事故は発生したということができるだろう。
[舘野 淳 2016年10月19日]
『リチャード・ローズ著、神沼二真・渋谷泰一訳『原子爆弾の誕生――科学と国際政治の世界史』上下(1993・啓学出版)』▽『リチャード・ローズ著、小沢千重子・神沼二真訳『原爆から水爆へ――東西冷戦の知られざる内幕』上下(2001・紀伊國屋書店)』▽『憂慮する科学者同盟(UCS)編・日本科学者会議原子力問題研究委員会訳『原発の安全性への疑問――ラスムッセン報告批判』(1979・水曜社)』▽『川上幸一著『原子力の光と影――20世紀を演出した技術』(1993・電力新報社)』▽『中島篤之助・安斎育郎著『原子力を考える』(1983・新日本出版社)』▽『日本科学者会議編『原子力発電――知る・考える・調べる』(1985・合同出版)』▽『桜井淳著『原発事故の科学』(1992・日本評論社)』▽『吉岡斉著『原子力の社会史――その日本的展開』(1999・朝日選書)』▽『舘野淳・野口邦和・青柳長紀著『徹底解明 東海村臨界事故』(2000・新日本出版社)』▽『佐藤一男著『改訂 原子力安全の論理』(2006・日刊工業新聞社)』▽『舘野淳著『廃炉時代が始まった この原発はいらない』復刊版(2011・リーダーズノート)』▽『山崎正勝著『日本の核開発 1939~1955――原爆から原子力へ』(2011・績文堂出版)』▽『原子力技術史研究会編『福島事故に至る原子力開発史』(2015・中央大学出版部)』▽『武谷三男編『原子力発電』(岩波新書)』▽『高木仁三郎著『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)』▽『市川富士夫・舘野淳著『地球をまわる放射能――核燃料サイクルと原発』(1986・大月書店)』▽『日本科学者会議原子力問題研究委員会編『Q&A プルトニウム』(1994・リベルタ出版)』▽『清水修二・舘野淳・野口邦和編『動燃・核燃・2000年』(1998・リベルタ出版)』▽『土井和巳著『日本列島では原発も「地層処分」も不可能という地質学的根拠』(2014・合同出版)』▽『W・マーシャル編・住田健二監訳『原子力の技術』1~6(1986~1987・筑摩書房)』▽『浅田忠一他監修『新版 原子力ハンドブック』(1989・オーム社)』
原子は原子核とそのまわりをまわる電子とから構成されている。たとえば,原子と原子が結合して分子をつくる通常の化学反応では,電子が反応の主役となり原子核は反応に関与しない。しかし,ある特殊な状態の下では,原子核が反応を起こすことがある。それを原子核反応あるいは単に核反応という。核反応に伴って発生するエネルギーを原子核エネルギー(核エネルギー)nuclear energyあるいは原子エネルギーatomic energyという。そして,その利用に重点をおいて呼ぶ場合,一般に原子力atomic powerという。発生するエネルギーが大きく,それをいわゆるエネルギー源として利用しうるという意味では,1個の原子核が2ないし3個の別の原子核に分裂してしまう核分裂と,2個の異なる原子核が融合して1個の新しい原子核になってしまう核融合という2種類の核反応によって発生するエネルギーが注目される。前者を核分裂エネルギー,後者を核融合エネルギーという。
核分裂は重い元素ほど起こしやすい。ふつう,天然に存在する元素のうちでは,ウラン,特にウラン235235Uという同位体が最も核分裂しやすい。235Uが中性子と衝突して核分裂を起こすと,核分裂生成物と呼ばれる,ウランよりずっと軽い物質と,2~3個の中性子とができる。と同時に,膨大なエネルギーが発生する。1gの235Uがすべて核分裂するときに発生するエネルギーを概算すると,約2000万kcalになる。石油1lの燃焼熱は約1万kcalであるから,1gの235Uから発生する核分裂エネルギーは,石油にして約2000lということになる。核分裂エネルギーの大部分(80%以上)は核分裂生成物の運動エネルギーになっている。核分裂生成物の原子核は不安定で,放射線を出して安定な状態になろうとする。放射線を出す性質や能力は放射能と呼ばれる。したがって核分裂エネルギーを利用するためには,この放射能の強い核分裂生成物の介在を不可欠とする。
一方,非常に軽い元素は核融合反応を起こす可能性がある。水素の同位体である重水素(ジュウテリウム)2Hと三重水素(トリチウム)3Hの原子核がたがいの電気的反発力に打ち勝って衝突すると,ヘリウム4Hの原子核と中性子に変わり,同時にエネルギーを放出する。2gの2Hと3gの3Hとが核融合して発生するエネルギーは,235gの235Uが核分裂して発生するエネルギーの10%近くである。これを全反応物質の単位質量当りに換算すると,核融合エネルギーは核分裂エネルギーの約4倍ということになる。すなわち,単位質量当りのエネルギー密度でいうと,ウランの核分裂エネルギーは石油の約200万倍,水素の核融合エネルギーはさらにその数倍ということになる。核融合反応では,核分裂生成物のような放射能の強い物質は直接は生まれず,約80%は中性子の運動エネルギーとなっている。核融合エネルギーの方が核分裂エネルギーよりきれいであるといわれるのはこのためである。ただし,核融合反応を起こさせるためには,数千万℃以上の超高温状態をつくる必要があり,技術的に難しい。
原子力の科学的発見は,19世紀末,1895年のW.C.レントゲンによるX線の発見に端を発する。X線とは,その正体が不明であることから名づけられた。当時,多くの科学者がその正体究明に没頭していた。そのうちの一人,A.H.ベクレルは,ウランがX線と同じように物質を透過する性質をもつ放射線を出していることに気づいた。キュリー夫妻(M.キュリー,P.キュリー)はこのベクレルの実験結果を徹底的に調べ,ウランが出している放射線はウランに固有のものであり,また,ウラン以外にも同じように放射線を出す元素があることを発見(1898),放射線を出す性質や能力を放射能と呼び,放射能をもつ元素を放射性元素と呼んだ。次いでE.ラザフォードは,ウランから放出される放射線のなかに,正の電荷と負の電荷をもつ放射線があることに気がつき,それぞれ,α線とβ線と名づけた。さらに,電荷をまったくもたない放射線もあることが発見され,γ線と命名された。β線が電子の流れであることは1900年にベクレルによって明らかにされた。しかし,α線がヘリウムの原子核の流れであることが明らかにされるまでには時間がかかった。正の電荷を帯びた原子核のまわりを負の電荷をもつ電子がまわっているというラザフォードの原子模型が発表されたのは1911年であり,陽子と電子が一体となって結合した中性子が存在することがJ.チャドウィックにより明らかにされ,W.ハイゼンベルクにより原子核がその中性子と陽子とで構成されていることが理論的に証明されたのは1932年である。
一方,放射能が同時にエネルギーを伴うことにもキュリー夫妻は気がついていた。このエネルギーが原子自身の中に隠されているという説はベクレルやラザフォードによって提唱された。しかし,それがなぜ放射能に伴って放出されるかについてはA.アインシュタインの質量mとエネルギーEの関係式E=mc2(cは光速)が立証されるまで明らかでなかった。原子核が放射線を放出すると,ごくわずかながら質量が消滅する(質量欠損)。1905年に発表されたアインシュタインの関係式を使ってこの消滅した質量をエネルギーに換算してみると,ちょうど放出されているエネルギーに一致した。アインシュタインの関係式から1gの質量が消滅した場合に放出されるエネルギーを計算すると,9×1020erg,約2500万kWhのエネルギーに相当する。この膨大なエネルギーが,原子核エネルギーすなわち原子力の源となっていることが明らかになってきた。
ところで,中性子が発見されてから,中性子をウランの原子核に衝突させる実験が多くの研究者によって行われた。当時,天然に存在する元素のうち最も重い元素はウランであると信じられており,ウランより重い元素は存在しえないものかどうかに興味があった。ウランの原子核が中性子を吸収すると,中性子過剰のウランの原子核ができ,それがβ線を出すと,ウランより重い元素ができるかもしれないという期待があったからである。実際,このようにしてウランより重い元素が存在しうることが確かめられた。ウランより原子番号の一つ大きい元素はネプツニウム,二つ大きい元素はプルトニウムと名づけられた。1940年前後のことである。しかし,同時に,ウランが中性子を吸収すると,これとはまったく異なる反応も起きることが発見された。1934年,E.フェルミはウランの原子核に中性子を当てると新しく放射性物質が生成されることに気づいた。1939年,O.ハーンらは,新しくできる放射性物質の元素を詳しく分析し,この現象はウランの原子核が分裂したと考えざるをえないことを発表した。一方,核融合反応の実験的検証は核分裂のそれより早かった。1934年,ラザフォードとその協力者たちは,2Hの原子核を2Hの標的に衝突させ3Hができることを実験的に確かめた。そして,この核融合に伴って発生するエネルギーが太陽エネルギーの源であることを,ベーテHans Albrecht Betheが1938年に理論的に証明した。
ウランの核分裂によって膨大なエネルギーが発生するといっても,その核分裂を起こさせるために必要な中性子をつくるのに相当なエネルギーが必要であり,また,中性子がウランに衝突するといつでも核分裂を起こすというわけでもない。したがって,核分裂エネルギーをエネルギーとして利用することは至難であると考える人が多かった。しかし,核分裂に伴って同時に中性子が発生することがわかってから,その可能性への期待が大きくふくらんだ。1回の核分裂によって平均約2.5個の中性子が新たに発生し,そのうち少なくとも1個の中性子がまた別のウランの原子核に衝突して核分裂を起こせば,核分裂反応を連鎖的に持続できるからである。このことを,I.アシモフは次のようにたとえている。〈木に火をつけるには何度もマッチをすらなければならないが,いったん火がついてしまえば森全体を燃やすことができるように,莫大なエネルギーが利用できる可能性がでてきた〉と。
ところで,ウランの核分裂現象をよく調べてみると,ウランの軽い同位体235Uが核分裂しやすく,238Uはほとんど核分裂しないことがわかった。したがって,235Uをたくさんつくり,それに中性子を当てて235Uの核分裂連鎖反応を起こさせれば,一気に莫大なエネルギーを生産できる可能性がある。第2次大戦前より,ナチス・ドイツのユダヤ人弾圧政策をのがれて多くの優れた科学者がアメリカに渡ってきていた。彼らは,ドイツに残っている科学者たちが核分裂エネルギーを用いて兵器をつくる可能性を危惧し,当時のアメリカ大統領ローズベルトにアメリカでもその可能性をドイツに先がけて検討する必要があることを訴えた。そして,これが契機となってマンハッタン計画とよばれる国家機密プロジェクトが発足した。核分裂現象発見の論文が発表されたのが1939年1月で,科学者を代表してアインシュタインがローズベルトへ書簡を送ったのが同年8月であった。
マンハッタン計画では,まず,235Uの濃度の高い濃縮ウランをつくることが最大の課題となった。何百例という技術的方法が検討され,最終的に1944年,ガス拡散法とよばれる方法の開発に成功,翌45年,テネシー州オーク・リッジのウラン濃縮工場から最初のガス拡散法による濃縮ウランが送り出された。
→ウラン濃縮
他方,プルトニウムの同位体の一つ,プルトニウム239239Puが235Uと同じように核分裂しやすいという性質をもつことが,ウラン濃縮技術を研究開発中の1941年にE.O.ローレンスによって発見された。そこで,プルトニウムを生産することがマンハッタン計画のもう一つの課題となった。プルトニウムはサイクロトロンを用いて発見されたが,この方法でプルトニウムを生産することには量的限界があった。より大量のプルトニウムを一度に生産する方法がフェルミらによって提案された。すなわち,235Uの核分裂に伴って発生する中性子を238Uに吸収させることによって239Puを生産しようとの考え方であり,これを実現するために必要となる連鎖反応装置が技術的に可能であるかどうかが検討され始めた。原子炉の概念の始まりである。
そのような原子炉の開発研究はシカゴ大学が中心となって進められた。フェルミらは,235Uが速度の遅い中性子と衝突するとむしろ核分裂しやすいことに着目し,次のような装置の設計にとりかかった。すなわち,核分裂によって生まれる中性子は光の速度にも匹敵する速度をもっているので,その速度をおとすために減速材を用いるというものであった。減速材は中性子と衝突することによって中性子がもっている運動エネルギーを吸収する。中性子が何回か減速材と衝突すれば,最も核分裂しやすい速度まで減速され,ウランと核分裂反応を起こしやすくなる。当時,濃縮ウランはできていなかったので,235Uを0.7%しか含まない天然ウランを用いざるをえず,中性子をできるだけ有効に利用し,効率よく連鎖反応を維持することが最大の課題であった。このために,減速材としての特性に優れる材料として黒鉛が選ばれた。フェルミらの設計した原子炉は,黒鉛のブロックを煉瓦状に積み上げ,そのところどころに穴をつくって天然ウランを入れておくというものであった。その構造からシカゴパイル1(CP1)と呼ばれたこの装置(原子炉)は,1942年12月2日,見事,臨界に達した。臨界とは,装置の中で,中性子の数が増えることも減ることもなく一定に保たれていることを意味する。増えすぎると,連鎖反応が爆発的に加速され,極端な場合には装置自体が破壊されてしまう。減りすぎると,連鎖反応が維持できず核分裂反応が停止する。
→原子炉
シカゴ大学の成功により,プルトニウムを生産するための原子炉がオーク・リッジやワシントン州のハンフォードに建てられた。原子炉でプルトニウムが生産できるといっても,プルトニウムが単独で存在しているわけではない。できたプルトニウムはウランの中に少量混ざっているだけである。また,そのウランには放射能の高い核分裂生成物が共存している。核分裂生成物の放出する放射線の強さは,直接被曝した人間を死亡させるほどのものである。したがって,原子炉から取り出したウランからプルトニウムを分離する操作を直接人間が手で行うことはできない。この操作は,今日では再処理と呼ばれている。再処理には,ウラン濃縮とはちがった意味で特有な技術を要する。マンハッタン計画の中でアメリカが,1日数gのプルトニウムを抽出できるようになったのは1944年3月である。これは,リン酸ビスマスとフッ化ランタンを沈殿剤とする沈殿法であった。今日広く用いられている溶媒抽出法による本格的再処理設備は1944年12月よりハンフォードで運転に入った。
→核燃料再処理
濃縮ウランまたはプルトニウムから核兵器を製造する技術は,1945年2月ころからニューメキシコ州ロス・アラモスで研究され,7月16日にはネバダ州の砂漠で最初の核実験を行い,8月6日広島へのウラン爆弾,同9日長崎へのプルトニウム爆弾の投下となった。
戦後になっても東西冷戦が深刻化するにともない,核軍備は拡張・拡散した。アメリカでは,オーク・リッジのウラン濃縮工場を拡充するばかりでなく,ケンタッキー州パドゥーカに53年,オハイオ州ポーツマスに55年,同種の工場を新設した。プルトニウム生産能力も大拡張され,サウス・カロライナ州サバンナ・リバーには重水減速型プルトニウム生産炉が建設された。原子力潜水艦は48年ころから開発され,54年世界初の原子力潜水艦ノーチラス号が進水した。原子力潜水艦の原子炉には,今日の加圧水型軽水炉の原型である濃縮ウラン燃料・軽水減速冷却型が用いられた。アメリカ以外の国でも核武装が進み,ソ連は49年,イギリスは52年,フランスは60年,中国は62年,それぞれ最初の核実験を行った。
1950年代に入り,国際的緊張緩和の兆しとともに,原子力の核兵器への利用を制限する努力をする一方,それを平和目的に利用するとの方向が国際的に打ち出された。アメリカ政府は国内ウラン濃縮設備を効率的に利用することを目的に,54年原子力法を制定し,原子力の分野への産業界の自主的参入を認めた。53年アメリカ大統領アイゼンハワーは国連総会で〈平和目的の原子力〉と題する演説を行い,原子力平和利用を国際的に管理しながら進めるべきことを提案した。これを契機に,国連の下部機構として原子力の国際管理を目的とした国際原子力機関(IAEA)が57年に創立された。55年にはジュネーブで国連の主催による原子力平和利用のための国際会議(いわゆるジュネーブ会議)が開かれ,原子力発電技術の内容,世界的ウラン資源の賦存状況などが公開された。54年にソ連では初の原子力発電所(5000kW)の運転が開始されている。
世界最初の原子力発電は1951年12月20日,アメリカのアイダホ州アルゴンヌ研究所における実験用高速炉に蒸気発生器と蒸気タービンを連動して行われた。アルゴンヌ研究所はアメリカにおける原子炉開発計画の中心機関となり,今日の軽水炉の基礎となるデータを与えた沸騰水型,加圧水型炉の開発試験計画をはじめその他各種の炉型開発計画が進められた。
56年アルゴンヌで臨界となった実験用沸騰水型炉は,板状金属ウラン燃料を用いており材料試験炉に近いものであった。その後,イリノイ州ドレズデンで民間主導の下に発電用沸騰水型炉(20万kW)が開発され,59年に臨界に達した。微濃縮ウラン燃料,ジルカロイ被覆が用いられており,今日の沸騰水型軽水炉の原型となった。一方,加圧水型炉では,57年に臨界となったペンシルベニア州シッピング・ポートの発電炉が炉の飛躍的大型化(7万kW)に成功したものとして注目された。この成果は,マサチューセッツ州ヤンキーで60年に臨界に達した発電炉(15万kW)に受け継がれ,これが今日の加圧水型軽水炉の原型となった。
沸騰水型,加圧水型いずれの軽水炉も,初期のころはウラン単位重量当りの熱エネルギー発生量(比出力)と積算熱エネルギー生産量(燃焼度)が低く,大型化と同時に,これらの向上が商業化の眼目とされた。軽水炉では普通の水を減速材に用いる。水は中性子を減速する性質と同時に,中性子を吸収するという性質も強い。臨界にするためには,水に吸収される中性子の分だけよけいに中性子を生産する必要があり,濃縮ウランを用いる必要がある。アメリカが軽水炉の開発に特に熱心であった背景には,オーク・リッジ,パドゥーカ,ポーツマスの3濃縮工場を有効に利用したいという国策上の意図があった。
フェルミらによる世界最初の原子炉に用いられた天然ウラン燃料・黒鉛減速・ガス冷却型の考え方は,イギリスにおけるプルトニウム生産炉にも利用され,これがイギリスの初期の商業用発電炉コールダ・ホール型炉(マグノックス炉ともいう)の基礎となった。また,サバンナ・リバーのプルトニウム生産炉で用いられた重水減速冷却型の考え方は,初期のころ研究用原子炉として各国で研究された。重水は,普通の水とちがって中性子を吸収する性質が弱いので,重水炉では天然ウランを用いることができる。しかし,高価な重水の損失を低減するため,減速材,冷却材としての重水をそれぞれ区分し,冷却材流路を圧力管型とする原子炉がカナダで開発され,いわゆるCANDU炉の原型となった。カナダが重水炉を推進した背景には,国内に豊富なウラン資源と水資源をもつという事情があった。
以上が,原子力発電技術,特に原子炉技術の初期の発展の概略である。これらが,原子力以外の他の発電技術との経済性比較において議論されうるようになるまでには,なお数年を要した。その緒となった最初の事例は,1963年ニュージャージー州オイスター・クリーク発電所における沸騰水型軽水炉の採用であった。しかし,これが実際に発電を開始したのは69年からであり,経済的に本格化した原子力発電の利用は70年代に入ってからである。
日本の原子力開発は,1954年の政府による原子力予算2億3500万円の決定に始まる。同年,原子力利用準備委員会が発足し,原子力海外調査団の派遣,濃縮ウラン受入れのための日米原子力研究協定の調印,第1回ジュネーブ会議への参加などが進められた。56年には原子力基本法が発効し,民主,自主,公開のいわゆる原子力三原則を法律によって定め,日本の原子力開発の基本姿勢となった。同年,原子力委員会が設置されるとともに,日本原子力研究所,原子燃料公社(のち動力炉・核燃料開発事業団となり,1998年10月より核燃料サイクル開発機構)が設立され開発母体となった。原子力委員会は原子力開発利用長期計画を策定し,これらの機関での研究開発の方向を示す役割を担った。この研究開発の方向に従って,日本原子力研究所では56年最初の研究炉JRR-1をアメリカから購入し,翌年臨界となった。60年臨界となった第2の研究炉JRR-2もアメリカ製であったが,国産炉の開発も進められ,天然ウラン燃料・重水減速型の国産1号炉(JRR-3)が62年9月に臨界となった。
原子力発電の実用化は,日本原子力発電(株)の手による東海1号炉の完成に始まる。当初,日本原子力研究所の試験用発電炉を経たのち電気事業者による実用炉へ進むということが基本方針とされていたが,原子力発電はすでに実用化時期に近づいているとの見通しが55年ころから国際的に喧伝されていたこともあって,原子力発電推進体制を早期に決める必要性に迫られた。当時は,原子力平和利用の緒についたばかりであり,経済性に関する確たる見通しがある由もなく多くの論議を呼んだが,結局,電気事業者の積極的開発意欲を反映して関連企業の共同出資による日本原子力発電が57年に発足した。そして,日本への輸出に最も熱心であったイギリスのコールダー・ホール型炉を導入することが決められ,東海1号炉として茨城県那珂郡東海村に建設されることになった。同炉が電気出力12.5万kWの発電を開始したのは66年である。
東海1号炉は98年3月に運転を停止し,廃炉にすることが決定したが,建設の過程でいくつかの予期されなかった技術的課題に遭遇した。耐震設計,黒鉛材強度,圧力容器品質,熱交換器耐久性,炭酸ガスによる腐食作用の抑制に問題点が露見され,それぞれ変更を余儀なくされた。革新的新技術の実用化初期の段階では,このような予想外の問題が発生することは決してめずらしいことではない。しかし,アメリカにおける軽水炉技術が進歩し,アメリカ国内での軽水炉発電の急速な伸展がみられつつあったことから,日本でもそれ以降は,コールダー・ホール型原子炉にかわって軽水炉を導入することとなった。日本原子力発電は67年2月に沸騰水型炉を福井県敦賀市に,関西電力は同年8月加圧水型炉を福井県三方郡美浜町に,東京電力は同年9月に沸騰水型炉を福島県双葉郡大熊町に,それぞれ建設を開始した。これらが発電を開始したのは,それぞれ70年3月,70年11月,71年3月である。
ウランはそれ自身ではほとんど利用価値がない。原子炉の中へ入れてはじめてエネルギーになり価値が生まれる。この点は石油などとまったく異なる。石油はほとんどそのままの形でエネルギーとして利用でき,またエネルギー以外の用途も多い。ウランから得られるエネルギーは核分裂エネルギーであるが,核融合エネルギーについても同様である。その燃料である2Hや3Hは核融合炉という特殊な装置に入れられてはじめてエネルギーとなる。原子力を大規模に利用するためには,原子炉や核融合炉という特殊な設備を不可欠とする。この点が原子力の最大の特徴である。このことは,エネルギー生産コストにはっきり表れる。石油のような場合には,石油の価格がエネルギーコストの大部分を占めるが,原子力では,ウランや核融合燃料のコストより原子炉や核融合炉設備のコストが大きな比重を占める。
核分裂エネルギーは核分裂生成物の運動エネルギーになっている。核分裂によって飛散する核分裂生成物の初速は光の速さにも匹敵する。しかし,瞬時にまわりの物質すなわち核分裂を起こしていないウランに衝突し止められてしまう。核分裂生成物が運動する距離は1mmの何千分の1,何万分の1程度しかない。超高速で飛び出してきた粒子がそれほどの短い距離の間にブレーキをかけられてしまうのであるから,ウラン自身の温度は著しく上昇する。すなわち,核分裂エネルギーは瞬時のうちに熱エネルギーに変えられている。ウランのまわりに冷却材を流すことによってこの熱エネルギーを取り出すことができる。これが原子炉による核分裂エネルギー利用の原理である。
核融合炉でも事情はあまり変わらない。エネルギー伝達の最初の担い手は中性子である。磁気閉込め方式の核融合炉であれば,核融合反応の起きている炉心から中性子が超高速で飛び出してくる。炉心のまわりにはブランケットと呼ばれる部分があり,中性子はその中の物質によって止められ,その物質の熱エネルギーに変えられる。それを冷却材を流して取り出す。
核分裂生成物は強い放射能をもつ。核融合炉の中性子も強い放射線である。また燃料として用いる3Hは放射性物質である。原子力の利用には放射線や放射性物質がつねに介在する。これが原子力の第2の特徴である。原子力の安全性ということが特に重視されるのもこの点に根ざしている。この原子力の安全性を確保するうえでとられる基本的考え方は,多重の障壁による閉込めという技術的手段と多重防護または深層防御と呼ばれる設計思想である。
原子炉では,核分裂生成物を発生するウランを,まず被覆管と呼ばれる金属の管に入れて閉じ込める。軽水炉であれば,管の外側は減速材であると同時に冷却材である水が流れている。水とウランが管で仕切られ直接接触しないようになっている。しかし,その管が置かれている環境条件は過酷である。管の内のウランは1000~2000℃の高温となり,多量の放射線を出している。加圧水型軽水炉か沸騰水型軽水炉かによって異なるが,外の水は250~300℃の温度でも沸騰しないように100気圧前後の圧力がかけられており,また,腐食作用をもっている。したがって,この管が完全に内の放射能を閉じ込められるかどうかにはよほど注意しておく必要がある。原子力の安全性を確保するうえで大切な第1の技術的課題はこの管の健全性である。工学的技術であるから100%完全であることはない。日本の沸騰水型軽水炉について最近報告されている値では,管の不完全率は数十万本に1本程度である。この不完全率が原子炉の運転期間中変わらなければ,数万本の管が入れられている一つの原子炉の中で,そのすべての管が完全である確率は約90%,たった1本が不完全である確率は約9%,2本が不完全である確率は約0.5%になる。
被覆管の不完全性を補う第2の障壁は冷却水浄化系である。わずかであっても冷却水中に核分裂生成物が混入する可能性がある。これを捕捉するために,冷却水循環系にはイオン交換樹脂などによる脱塩浄化装置が設けられている。原子炉の中では,核分裂による中性子や核分裂生成物の放出する放射線が多量に存在し,これらが原子炉内の機器を放射化したり,放射線化学的に冷却水の化学反応性を高めたりする。そして,これらの相乗効果として,種々の放射性腐食生成物が発生し冷却水中に混入する。冷却水循環系では,これらを除去すると同時に高度な品質管理が要求される。
原子炉全体は圧力容器と呼ばれる耐圧性容器に入れられている。これが第3の障壁としての役割をもっている。圧力容器は,肉厚20cm程度の鋼鉄や10m程度の特殊コンクリートによって作られ,高圧冷却水の閉込め機能と,原子炉内で発生する放射線遮蔽,放射能閉込め機能を兼ね備えている。原子炉事故による放射能逸散に対して重要な障壁となる。
さらに,圧力容器ごと格納容器と呼ばれる大型の構造物の中に入れられている。これが第4の障壁となっている。格納容器の中には,タービン,発電機,復水器などの発電設備以外の主要機器が納められている。冷却水循環ポンプや加圧水型軽水炉の蒸気発生器などである。これらの機器には放射能を含む冷却水が流れており,機器が故障すれば漏れる可能性がある。格納容器は,圧力容器のバックアップ機能と同時に,それを外の環境へ漏出させない役割を担っている。
以上が,多重の障壁による放射能,特に核分裂生成物の閉込めの概略である。多重の障壁によって原子炉と外界とは遮断されている。他方,原子力発電所では,種々の廃棄物が発生する。放射能を含むものは放射性廃棄物として管理する。放射性廃棄物は,放射性廃棄物処理系へ導かれ,安定な形態で貯蔵するか,放出点での放射能が許容値以下になるように処理してから放出される。これらの放出量をできるだけ低くすると同時に許容値自体も低減化し,かつ,機器の故障,損傷などによる異常な放出が起きる確率をできるだけ低くすることが原子力安全確保の基本姿勢となっている。
この基本姿勢は多重防護または深層防御と呼ばれる次のような設計思想となっている。すなわち,まず第1のレベルとして,平常運転時には最大限の安全性,故障時には最大限の余裕が得られるように設計することによって異常事態の発生を防止する。次に第2のレベルとして,それでも異常事態は起こりうるものと考え,それが事故につながらないような安全策を講ずることによって事故の発生を防止する。さらに第3のレベルとして,仮に事故が発生し,かつ,事故を制御すべきいくつかの防御策が故障したと仮定して,その場合の環境への影響をあらかじめ調べ,その結果から適切な安全系を備えることによって災害の発生を防止する。
原子力の第3の特徴は,エネルギー資源を人工的につくることができる点にある。原子炉の中で起きている基本的核反応は,
(1)235U+中性子→核分裂
(2)238U+中性子→239Pu
(3)239Pu+中性子→核分裂
の三つの反応である。核分裂エネルギーは,(1)と(3)の反応から生まれる。239Puは天然にほとんど存在しないので,(2)の反応によって239Puを人工的につくり(3)の反応を起こさせればエネルギーを人工的につくり出すことができる。
今日の軽水炉から得られているエネルギーの内訳をみると,(1)と(3)の反応の比率は2対1程度である。すなわち,今日の原子力発電所が生産しているエネルギーの1/3程度は人工的資源239Puによるものである。将来この比率を高めればエネルギー生産効率は向上する。(2)の反応を効率よく起こさせれば,それによって生成されるプルトニウムの方が,(1)と(3)の反応によって消費される235Uや239Puより多くなる可能性がある。そのような原子炉は増殖炉と呼ばれる。(2)の反応を効率よく起こさせるためには,(1)や(3)の反応で生まれる中性子を減速することなく(2)の反応に使われるように工夫する必要がある。
天然に存在するウラン資源をエネルギーに換算して表現する場合,天然ウランに含まれる235Uの量から推算するという方法がよくとられる。しかし,この方法は精確ではない。それは(1)の反応に基づくエネルギーしか勘定していないからである。精確にいえば,238U自身も核分裂を起こさないわけでなく,また,それが239Puに変わって核分裂を起こすので,その効果を考慮しておかなければならない。それは原子炉の設計や運転方法いかんによる。天然に存在するウラン資源のエネルギー資源としての価値が原子炉の設計・運転方法いかんによって変わること,これが原子力の第3の特徴なのである。
1995年の世界の原子力発電電力量は2兆2000億kWhで,世界の総発電電力量の約17%を占めている。これを石油に換算すると約5億8000万klになる。
96年12月末現在,世界各国で運転中の発電用原子炉は434基(3億6660万kW)に達し,世界全体の総一次エネルギー供給の約7%を賄っている。また,建設中の原子炉は46基(3900万kW),計画中の原子炉は58基(4300万kW)である。世界の原子力発電規模はアメリカが最も大きく,次いでフランス,日本,ドイツ,ロシア,カナダ,イギリス,ウクライナ,スウェーデンの順となり,32の国・地域で原子力発電が行われている。
日本は,98年12月末現在,52基,4500万kWの原子力発電設備が運転されており,世界で3番目の原子力発電国となっている。また,このほかに6基,約600万kW(高速増殖炉〈もんじゅ〉28万kWを含む)が建設中あるいは建設準備中である。1996年の原子力発電電力量は約3000億kWhで,日本の総発電電力量の約3割を占めている。
97年12月の地球温暖化防止京都会議(COP3)において,日本は,温暖化ガスの排出量を2010年ころまでに1996年比-6%に下げる約束をした。この目標を達成するためには,エネルギー利用に伴うCO2排気量をそのときまでに96年レベルに下げる必要があり,政府は,98年に国のエネルギー需給見通しの再評価を行った結果,2010年の原子力発電の総設備量を6600万~7000万kWにすることを目標として掲げている。
資源小国の日本にとってエネルギーの安定供給を図っていくことがとくに重要であり,原子力は,石油への過度の依存を抑制するうえから有効なエネルギーとされてきたが,今後は,さらに,CO2排出量の削減の要請に応えるための必要性が増している。
他方,原子力については,放射線や放射能に関する不安感が根強く存在し,国や電力会社の計画どおりに進まなくなってきている。
とくに原子力発電に派生する使用済燃料と放射性廃棄物の問題が社会的に大きな関心事となっている。使用済燃料については,原子力を準国産エネルギーとして安定供給性を高めるため,再処理した後,中に含まれるプルトニウムをウランと混合したMOX燃料と呼ばれる燃料にして再利用することが日本の基本方針となっている。茨城県東海村に小規模な再処理工場が存在するが,容量不足のため,イギリス,フランスに海外委託再処理を行うとともに,青森県六ヶ所村に大型の再処理工場を建設中である。東海村の再処理工場は,97年3月にアスファルト火災事故を起こしたが、2001年に運転を再開。海外再処理によって回収されたプルトニウムはヨーロッパでMOX燃料に加工された後,日本に持ち帰り,日本の原子力発電所で再利用する計画になっており,98年9月現在,福井と福島の両県にある原子力発電所での計画が具体化しつつある。
六ヶ所村に建設中の再処理工場は,98年9月現在,使用済燃料の受入れ貯蔵施設が完成したところで,試験的受入れが開始されようとしている。同工場の規模では日本全体の使用済燃料の発生量に対しなお不足しているため,電力会社は発電所内の使用済燃料貯蔵施設の容量を増やすとともに,発電所外の中間貯蔵施設の立地を検討中である。
放射性廃棄物は低レベル放射性廃棄物と高レベル放射性廃棄物に大別される。低レベル放射性廃棄物の大部分は原子力発電所の運転にともなって発生する。青森県六ヶ所村に低レベル放射性廃棄物の埋設処分施設が建てられ1992年から操業されている。97年末までに約10万本の200lドラム缶詰め廃棄物が同施設に埋設処分されている。同敷地には当面20万本分,将来的には100万本から300万本分の容量がある。
一方,高レベル放射性廃棄物のもとは,原子力発電所の使用済燃料にもともと含まれている核分裂生成物である。これは,使用済燃料の再処理によってプルトニウムとウランから分離された後,ガラス質に溶融して固化される。固化された高レベル放射性廃棄物は,放射能によって発生する熱を除去するため30~50年間貯蔵した後,数百m以深の深地下に埋設することが考えられており,そのための技術開発や計画遂行のための体制づくりが進められている。
高レベル放射性廃棄物の最終処分を実際に行っている国は世界的にまだ存在していない。国によって使用済燃料自体を高レベル放射性廃棄物としているところもあるが,最終処分技術の基本的考え方は各国とも共通している。問題は,その安全性を確保する必要がある期間が長期にわたる点で,社会的な理解を得ることが廃棄物の中でもとくに難しい。日本では,核燃料サイクル開発機構(旧動力炉・核燃料開発事業団)が中心になって技術開発を進めており,社会的理解の促進を図るため2000年までに第2次の成果報告書(第1次は91年に発表)を公表する予定になっている。
高レベル放射性廃棄物の量および中に含まれる放射能をできるだけ少なくする観点から,再処理や再利用の方法を改良し資源のリサイクルを一層進めるための技術開発も行われている。その核になる技術が高速炉技術であり,日本では原型炉〈もんじゅ〉が建設を終え試運転中であったが,95年12月にナトリウム漏れ事故を起こした。高速炉を実用化するためナトリウム技術の習熟を図る必要がある。
→原子力産業 →原子力発電
執筆者:鈴木 篤之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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