改訂新版 世界大百科事典 「辛酉教獄」の意味・わかりやすい解説
辛酉教獄 (しんゆうきょうごく)
朝鮮,李朝末期の1801年(純祖1年,干支は辛酉)に起きた天主教徒弾圧事件。正祖の父思悼世子の死(1762)をめぐって起きた時派と辟派の党争が宗教弾圧に発展したもの。正祖(在位1776-1800)の時代には党争緩和のために各派を平等に登用する蕩平(とうへい)策が採られた。しかし純祖(在位1800-34)が幼少で即位すると,大王大妃金氏(英祖の妃,正祖の継祖母)の垂簾(すいれん)政治が行われ,王妃の父で老論辟派のリーダー金祖淳が実権を握って時派(正祖にくみしたもの)を抑圧した。時派には老論の一部も含まれていたが,南人時派には天主教徒が多かったので宗教弾圧に発展し,1801年2月22日禁教令が出されるにいたった。4月,信徒の李承薫(朝鮮最初のクリスチャン),丁若鍾(実学者として有名な丁若鏞の三兄),崔必恭,洪楽敏,洪教万,崔昌顕らが処刑され,李家煥,権哲身らは獄死した。丁若鏞と彼の次兄の若銓は流刑に処された。6月には中国人神父の周文謨(しゆうぶんも)が処刑された。こうした弾圧に対して,周の信徒の黄嗣永(こうしえい)は,北京のグベーア司教に帛(しろぎぬ)に記した救援要請書を送ろうとしたが捕らえられ,〈帛書〉も押収された。〈黄嗣永帛書〉は朝鮮政府にキリスト教を公認させる手段として,清の宗主権の行使と西洋艦隊の示威を求めていたので,朝鮮政府に深刻な危機感を抱かせた。その結果,弾圧は強化され殉教者は約140名に上った。弾圧の対象はキリスト教関係だけでなく,西洋の科学・文化全般に及んだため,アヘン戦争(1840)以降の東アジアの国際情勢の中で朝鮮はとり残され,近代化に遅れる一因となった。
執筆者:原田 環
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報