逗子(市)(読み)ずし

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

逗子(市)
ずし

神奈川県東部、三浦半島の西の玄関口にある住宅・観光都市。1954年(昭和29)市制施行。鎌倉、横浜(金沢区)、横須賀(よこすか)、葉山の諸市町と境を接し、北、東、南を馬蹄(ばてい)形に巡らす丘陵は三浦半島の中位丘陵にあたり、第三紀層からなっていて岩質が硬い。逗子から東逗子(沼間(ぬまま))に至る東西方向の谷は三浦半島北部の古い地溝性の谷で、その南の丘陵には地層の不整合がみられる。また、北部丘陵が海に迫る所は海波の侵食を受けて景勝地をなす。JR横須賀線、京浜急行電鉄逗子線、国道134号、有料道路の逗葉新道、横浜横須賀道路が通じる。

 市域は古く先史時代から開け、丘陵の脚部をはじめとして、縄文(披露山(ひろうやま)遺跡)、弥生(やよい)(持田遺跡)、古墳(新宿横穴群など)時代などの遺跡が少なくない。1999年(平成11)にも、葉山町との境界の丘陵上で前方後円墳(長柄・桜山古墳(ながえさくらやまこふん)、国指定史跡)が発見されている。古代には古東海道が通じ、神武寺(じんむじ)、延命寺(えんめいじ)は奈良時代に行基(ぎょうき)が開いたと伝えられる。鎌倉時代に鎌倉の町が栄えると、逗子はその南郊としての役割を果たすようになった。北西の小坪(こつぼ)は魚貝などの生鮮食料の供給地、海岸一帯は鎌倉の遊覧地とされ、また田越(たごえ)河畔は処刑場で、平維盛(これもり)の遺子六代御前の最後の哀話がいまに語られる。鎌倉に接した丘陵には鎌倉時代の「やぐら」(岩窟(がんくつ)で、武士や僧侶(そうりょ)たちの墳墓)が多く、1000余基に及ぶ五輪塔がみられる。戦国時代、小坪の住吉城は、後北条(ごほうじょう)氏に追われた三浦氏(義国(よしくに))の一時的拠点に使われた。

 1889年(明治22)の横須賀線の開通後は、京浜名士の休養地、別荘地となって、文士の訪れが多く、徳冨蘆花(とくとみろか)の『自然と人生』『不如帰(ほととぎす)』などの名作の執筆地としても知られ、逗子湾岸に不如帰の碑があり、町の南端に蘆花記念公園がつくられている。第二次世界大戦後は京浜向け住宅地の開発が著しい。

 海岸は湘南海水浴場群の一つで、鷹取山(たかとりやま)のハイキングコースは早くから開け、稜線(りょうせん)からの展望と、湘南妙義(みょうぎ)といわれる奇岩と奇勝で知られる。披露山公園は眺めが大きく、小坪海岸の埋立地はホテル、ヨットハーバーなどが整い、新しいレクリエーションの場となっている。1982年(昭和57)、池子(いけご)の米軍弾薬庫跡地へ米軍用住宅を建設する計画が発表され、自然保護の立場などから反対運動が起こった。対立が続いたが、1994年に国と市、県が和解合意で調印、1996年から入居が開始され、1998年8月に837戸、3184人の入居が完了した。面積17.28平方キロメートル、人口5万7425(2015)。

[浅香幸雄]

『『逗子市誌』全9巻(1960~1981・逗子市)』『『逗子市史』全6巻7冊(1985~1997・逗子市)』


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