日本大百科全書(ニッポニカ) 「通貨論争」の意味・わかりやすい解説
通貨論争
つうかろんそう
currency controversy
1830年代から1840年代にかけて、地金論争に引き続いて行われた通貨発行をめぐる論争。通貨学派currency schoolと銀行学派banking schoolが対立した。
銀行制度の形成過程は近代産業資本の成立によって基礎づけられるものであるが、そのゆえに周期的な経済恐慌を必然的に伴うものとならざるをえなかった。兌換(だかん)再開(1821)後のイギリスは、1825年に早くも恐慌を経験し、イングランド銀行はまたもや兌換の危機に直面した。とともに地方発券銀行の破産が続いた。その後、銀行制度の改革が進み、株式預金銀行の整備が進捗(しんちょく)したにもかかわらず、1836年恐慌によりふたたび金融上の危機が生じた。こうした恐慌の原因と対策をめぐって通貨論争が生じた。
通貨学派の人たち(ロイドSamuel Jones Loyd(1796―1883。オーバーストーン卿(きょう)1st Baron Overstone)、ノーマンGeorge Warde Norman(1793―1882)、トレンズRobert Torrens(1780―1864)、R・ピールら)は、完全な通貨は正貨であるとして貴金属の輸出入にあわせて銀行券の数量を規制することを提唱した。その背後には、貨幣数量の増大→物価上昇→輸出減・輸入増→支払差額の逆調・為替(かわせ)相場下落→貴金属の流出→貨幣数量の減少→物価下落という国際的な自動調整作用の想定があった。これに対し、銀行学派の人たち(T・トゥック、J・フラートン、ウィルソンJames Wilson(1805―1860)、ニューマーチWilliam Newmarch(1820―1882)ら)は、通貨学派が退蔵貨幣の問題を無視しているとしてこれを批判し、銀行券の信用貨幣性を重視し、発券規制は有害無益と説いた。
銀行学派は、アダム・スミスの真正手形割引原理を理論上継承しつつ、その経験主義的な知識により通貨・信用の本質についてより深い理解を示したが、資本主義に固有の恐慌をその内面からとらえていたわけではなかった。通貨学派もまた恐慌を流通の一時的混乱ととらえたにすぎなかったが、当時における信用=銀行制度の発展に即応しての政策提言を行うことで脚光を浴びた。
この論争を経過して1844年8月にピール銀行条例が成立した。通貨学派の原理に沿って立法化されたこの条例は、その後の恐慌のたびに停止され、その原理の誤りや欠陥が指摘されることになった。
[鈴木芳徳]
『高木暢哉著『信用制度と信用学説』(1959・日本評論新社)』▽『高木暢哉著『銀行論』(1975・有斐閣)』