連尺町(読み)れんじやくちよう

日本歴史地名大系 「連尺町」の解説

連尺町
れんじやくちよう

[現在地名]岡崎市連尺通一―三丁目

岡崎城外郭内北東部に東海道往還筋の町としてほぼ東西に開かれた町。東は籠田かごだ町、西は材木ざいもく町に連なる。町の長さ四町一〇間・幅二間四尺五寸。よこ町木戸・連尺木戸によって城内へ通じ、郡内小路ぐんないこうじ口・横町よこまち口が八幡はちまん下・能見のみ町方面へそれぞれ通じていた。

連尺は連著・連索・連雀とも記した。享禄年中(一五二八―三二)松平清康が岡崎城を本拠地とする頃からだんだん町並をなしていったものであろう。天文一四年(一五四五)「岡崎市場 九郎衛門」という者が桑子妙源くわごみようげん寺に土地を寄進しているが(妙源寺文書)、かつて連尺町に市場と称する所があったといわれる(岡崎市史)。この「市場」が連尺町の始まりであろう。「三河国名勝志」に「連尺街は初め大殿町と称して半は諸士の住址なり」とあるように、初めは武士商人の混住した町であった。永禄三年御帰城之節屋敷割(三河国古事実録)に「連尺」として榊原七郎右衛門・中根助市・天野三郎兵衛・稲垣藤九郎らをあげている。「本願寺一揆記」に一向一揆の時、連尺町から七人の者が菅生満性すごうまんしよう寺に駆付け家康に供奉したとあるのや、家康出陣の際には連尺町の者八人が菅生門を固めた(町年寄扣帳)というのも、古くは士商混住の町であったからである。


連尺町
れんじやくまち

[現在地名]掛川市連雀れんじやく城下しろした

掛川宿一三町の一つで、東西に走る東海道往還の両側町。連着町などとも書く(享保頃「掛川城及城下之図」静嘉堂文庫蔵など)。明治期以後は連雀町となる。連尺は荷物を背負う道具で、連尺商人の座市であった連尺座が設けられたのが町名の由来という(掛川誌稿)掛川城の大手口が中央北側に堀を挟んで開かれ、西はなか町、東は神代地かんだいじ川を境として仁藤にとう町、南はさかな町に接する。正保城絵図では町屋としてみえ、宝永(一七〇四―一一)頃の懸河城郭図に連尺町と記される。分間延絵図には往還北側に本陣一軒が描かれている。


連尺町
れんじやくまち

[現在地名]浜松市連尺町・紺屋町こうやまち肴町さかなまち伝馬町てんまちよう

浜松城大手口の南に位置し、南北に通る東海道に沿う。御役町六町の一。南は伝馬町に続き、町北端を東に折れると神明しんめい町、西に折れると紺屋町(井上氏時代城下絵図など)。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ一町二一間、家数五三。浜松各町書上によると町並は東側一〇一間五尺・西側一〇五間、町幅四間四尺余。横町は南側三五間・北側三四間。本役家屋敷三六、総家数六五、うち借屋一七。諸役のなかには大手前水道板橋の架替え・修復などもあり、紺屋町と当町が人足を出した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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