道嶋嶋足(読み)みちしまのしまたり

改訂新版 世界大百科事典 「道嶋嶋足」の意味・わかりやすい解説

道嶋嶋足 (みちしまのしまたり)
生没年:?-783(延暦2)

奈良後期の武将陸奥牡鹿郡の出身者で,中央大官になり,一族あげて陸奥経営に大功があり,古代史上,例外をなす人である。はじめ丸子氏,次いで牡鹿連となる。〈体貌雄壮,志気驍武〉といわれ,馳射をよくした。757年(天平宝字1)橘奈良麻呂の変で主謀者のひとりとされた賀茂角足に請われ,高麗福信らとともに額田部の宅に酒を飲むと伝えられる。このころ従七位上授刀将曹に任ぜられていた。764年(天平宝字8)恵美押勝の乱にさいし将監坂上苅田麻呂とともに,詔を奉じて疾く馳せ,恵美訓儒麻呂を射殺した。この功により,従四位下勲二等,姓宿禰を賜り,授刀少将兼相模守となった。翌年(天平神護1)中将に転じ,本姓を改めて道嶋宿禰となる。その後正四位上までのぼり,内厩頭,下総守,播磨守を兼任した。この間,767年(神護景雲1)〈陸奥大国造〉に任じ,その功田20町は,大功田に准じている。〈陸奥出身の坂上田村麻呂〉というべき人であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「道嶋嶋足」の意味・わかりやすい解説

道嶋嶋足
みちのしまのしまたり
(?―783)

陸奥(むつ)国出身の軍事貴族。丸子(まるこ)嶋足、牡鹿連(おじかのむらじ)嶋足にもつくる。橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱、藤原仲麻呂の乱など奈良朝の政争に軍事的に深くかかわる。とくに仲麻呂の乱では、坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)とともに仲麻呂の男訓儒麻呂(くずまろ)を射殺し、その功によって従(じゅ)四位下(げ)、宿禰(すくね)姓を賜う。その後、授刀少将兼相模守(さがみのかみ)、近衛(このえ)員外中将、下総(しもうさ)守、播磨(はりま)守、中衛中将内厩頭(うちのうまやのかみ)などを歴任。769年(神護景雲3)には陸奥大国造(おおくにのみやつこ)として、陸奥の豪族62人の改姓を請い、770年(宝亀1)には蝦夷(えみし)の賊地逃亡の虚実を調査している。地方豪族の貴族化した希有(けう)なケースである。

[矢野建一]

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朝日日本歴史人物事典 「道嶋嶋足」の解説

道嶋嶋足

没年延暦2.1.8(783.2.13)
生年:生年不詳
奈良時代の武将。陸奥国牡鹿郡(宮城県)の郡領家の出身か。丸子を称したが,天平勝宝5(753)年大初位下,新たに牡鹿連の姓を賜る。橘奈良麻呂の乱(757)で奈良麻呂派は武人として有名な彼に反乱を邪魔されないために酔いつぶした。藤原仲麻呂の乱(764)に仲麻呂の子訓儒麻呂を射殺し駅鈴と内印(天皇御璽)を奪い返す大功をあげ,授刀少将従四位下に特進し宿禰の姓を賜る。天平神護1(765)年近衛員外中将となり道嶋宿禰の姓を賜る。神護景雲1(767)年陸奥国大国造 となる。宝亀1(770)年には近衛中将になっており,地方出身者としては異例の出世である。内 厩 頭,播磨守などを歴任。宮城県矢本町矢本横穴群は道嶋氏の墳墓という。<参考文献>熊谷公男「道嶋氏の起源とその発展」(『石巻の歴史』6巻)

(今泉隆雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「道嶋嶋足」の解説

道嶋嶋足 みちしまの-しまたり

?-783 奈良時代の武人。
陸奥(むつ)牡鹿郡(宮城県)の人。一族は丸子を称し,牡鹿連(むらじ)の氏姓をあたえられた。朝廷に武官として出仕し,藤原仲麻呂の乱でその子久須麻呂(くずまろ)を射殺。功により道嶋宿禰(すくね)の氏姓をうけた。陸奥大国造(おおくにのみやつこ)となり,正四位上,近衛中将にいたる。延暦(えんりゃく)2年1月8日死去。

道嶋嶋足 みちのしまの-しまたり

みちしまの-しまたり

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