改訂新版 世界大百科事典 「都市法」の意味・わかりやすい解説
都市法 (としほう)
Stadtrecht
中世のヨーロッパ,とくにドイツの諸都市に成立した法をいう。他の地域に比してドイツできわ立って強く現れた特徴であるが,都市は固有の法をもつ区域として周囲の農村部(ラント)の中にひとつの島のように存在し,都市法はラント法とは独立の法圏としてはっきり区別された。これに,ドイツ中世都市を市民的自由と代議制の保育所とみる19世紀前半の市民的憲法運動や,都市の商人資本を生産関係の転換の原動力とみなすマルクスの解釈などが結びつき,ドイツ法制史学上,この中世都市(法)の問題ほど論議の対象となったものも少ない。伝統的見解によれば,都市形成の決定的要因は遠隔地商人の原初的商業定住地(ウィクWik)であり,彼らに特許状で与えられた諸権利が都市法の最古の淵源である。その商人ギルドが都市の全住民をひとつの誓約団体に結び合わせ,都市君主の支配からの自由を求める闘争を行った(都市共同体の形成)。こうして都市法の基本的構成要素は,ウィクの法と,商人ギルドによって作り出された誓約団体の法に根ざすものとされる。しかし今日,こうした見解に根本的な再検討が加えられている。君主による自由付与の強調,地方的諸類型の分化,都市共同体と農村共同体(都市法と荘園法)との構造的親縁性の指摘,などがそれである。
都市内の法関係にとっても,当初はラント法の実務が出発点をなしたことはまずまちがいない。ラント法に由来する夫婦財産法・相続法,人命金規定や,帝国平和令に由来する身体・生命におよぶ刑罰規定などが都市法にみてとれるのである。しかしこれと並んで,都市の法に特有な諸条項が存在し,都市の基本的秩序と裁判制度,売買と取引の法,手工業や商業の規則といった題目において都市法はしだいにはっきりとラント法から分離していった。こうした都市に特有な法の起源はきわめて多種多様であるが,何よりも重要なのは,都市を周囲のラントからはっきり区別する諸権利を譲り渡した都市君主の特許状である。すなわち,第1に自由世襲借地。もろもろの人格的自由(なかんずく移転の自由)がこれと結びつく。第2に移入居住者の解放。非自由身分の者でも1年と1日都市内に居住すればもとの領主から追及されなくなる(〈都市の空気は自由にする〉)。第3に自由な市民共同体の基本的秩序。主任司祭選挙や裁判官選挙の権限が認められ,裁判事件には都市君主や裁判官と並んで市民も参与した。都市裁判所における判決発見人は自分たち自身の市民的法慣習にしたがって裁断したが,そこには同時に,自律的に法を形成していく可能性が含められていた。
これら一連の条項は,新たな建設諸都市の法の中に繰り返し出てくる。まさに建設都市は,多数の従属関係が支配する周辺ラントの只中にある自由な法の島であった。これに対して古い司教都市,とくにドナウ,ライン川沿いのそれは,最初の建設都市群が自由な法をもつ確固たる構成体として成立した時期になお,隷属からの解放とコムーネ的自律の獲得をめざして厳しい闘争の中にあった。これらの都市の住民はより大きな自立を得るために誓約にもとづく平和〈アイヌング(communioまたはconiuratio)〉すなわち司教の暴力的行為に対する神の平和の誓約に訴えたりしたが,いくつかの司教都市は君主に対する完全な自立を武力によって勝ちとらねばならなかったのである。
中世の後期に入って,都市に市参事会制度が確立すると,市参事会の制定法Satzungen,Willkürenが都市法の形成に中心的役割を果たすことになる。市参事会は他のすべての都市機関の重要性を押し下げ,たいていは都市の最上級裁判所にもなり,それとともに,古いシュルトハイスやフォークトの裁判所は衰退した。制定法を発布する権限は市民の誓約に基礎をおくものと考えられ,市参事会の制定した法を参集した市民の前で読み上げ,その通用力が確認された。この市参事会の制定権にもとづいて,広範囲な都市法--相当数の大きな都市では,官権の委託で個人または委員会による法典編纂作業の形で作り出された--が行われるにいたる。
ところで,すべての都市が自分に特有の都市法をもっていたわけではない。いくつかの都市が手本となるべき諸自由を有していたために,他の諸都市の模範となったのであり,都市君主が特許状をもってその市民に他のある都市の法を授与し,時にはその選択を市民自身に任せてしまうこともあった。さらには,都市自体がある古い都市に対し法の教示を要請することがしばしば生じた。問われた都市の方は,それがきっかけとなって初めて自分の法の主要な条項をひとつに集成することが多かった。こうして特許状または市民の自由意思にもとづく照会により,母都市と娘都市とのつながりができ,いわゆる都市法家族Stadtrechtsfamilienが形成された。もっとも重要な母都市はリューベックとマクデブルクである。リューベックの法はドイツの諸都市やバルト海地域のハンザ居留地を経てノブゴロドにまで達し,マクデブルクの法は東ザクセンおよびブランデンブルクだけでなく,ボヘミア,シュレジエン,ポーランドやさらに遠くの地方まで広まっていった。ほかに,北ドイツではブラウンシュワイク,リューネブルク,ミュンスター,ゾースト,ドルトムント,ライン地方ではアーヘン,フランクフルト・アム・マイン,ドイツ南部ではフライブルク,ニュルンベルクそしてウィーンが挙げられる。娘都市の多くは後になっても収受した法の解説や新しい法律問題について繰り返し助言を請い,とりわけ裁判所に係属中の訴訟の処理に窮したときには判断を求めた。そこで母都市は,いわゆる上級法廷Oberhofの地位を占めることになった。
都市法は,様々な分野で新しい法形式をもたらした。12~13世紀以降,法の合理化現象がみてとれるが,そこで都市は指導的な役割を演じている。なかでも重要なのは,法廷決闘および神判からの解放と,訴訟や法律行為における古めかしい形式主義の排除である。また経済的・計算的思考の現れとして,復讐から損害賠償への転化,質権の新たな展開(請戻されなかった担保物を売却し,超過額を債務者に返還するという取扱い),瑕疵担保の責任期間の短縮などが指摘される。また市民の土地に対する権利は当初たいていは所有権でなかったが,しだいに私的所有権としての性格を獲得していった(所有権概念のドイツ法への受入れ)。しかし同時に,土地登記簿の導入により動産所有権とは明確に区別された(ドイツ近代物権法の著しい特徴)。商法の分野(会社法,手形法,運送法,破産法)での法創造的成果はきわめて明瞭である。国制および行政(警察,租税,防衛等)に関し,都市はラントよりはるかに近世の国家に近かった。なお,都市諸官庁が集録した種々の都市帳簿Stadtbücherは,中世後期の都市の法生活を忠実に写しとったものとしてすこぶる重要な史料である。
→都市
執筆者:佐々木 有司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報