醒井宿(読み)さめがいしゆく

日本歴史地名大系 「醒井宿」の解説

醒井宿
さめがいしゆく

[現在地名]米原町醒井

古代の東山道(中世の東海道、近世の中山道)が通り、鎌倉時代から宿の機能を果した交通の要地で、「実暁記」に京都と鎌倉の間に設けられた六三宿の一として「佐目加井」とみえる。江戸時代には中山道六七宿の一つで、江戸より六一番目。六〇番目の柏原かしわばら宿(現山東町)から一里半、六二番目の番場ばんば宿へは一里の位置にある(宿村大概帳・分間延絵図)

〔中世〕

当地の居醒いさめ清水(居寤清水)が日本武尊ゆかりの泉として名所となっていたため、鎌倉時代から「東関紀行」「十六夜日記」などの紀行文に取上げられた(→醒井村。文和二年(一三五三)七月日の渡辺実軍忠状(土佐国蠧簡集残篇)によれば、足利義詮は上洛する際「佐馬替」を通っており、永享四年(一四三二)九月二七日には将軍足利義教が関東公方足利持氏を威圧するため駿河に下る途中(覧富士記)天文(一五三二―五五)頃には木村家盛が(木村家盛道中日記)、永禄一二年(一五六九)六月九日には山科言継が(言継卿記)、当宿を利用している。

〔醒ヶ井関〕

醒井宿の近くに設けられていた中世の関所。「大乗院寺社雑事記」文明一一年(一四七九)七月二六日条に関々分として「サメカヰ」とあり、当時の関銭は一〇文であった。また、翌年六月八日の足利義政御教書(慈照寺文書)には京都相国しようこく寺広徳院領として「醒井関壱所」とみえ、慈照じしよう(現京都市左京区)建立にかかわる段銭や人夫、臨時課役を賦課したが当関はこれを免じられている。「佐々木南北諸士帳」によれば醒井には土肥玄蕃亮が居住していたと伝え、「伺事記録」延徳二年(一四九〇)閏八月一六日条に京極政経が押領したとみえる「箕浦庄内土肥鹿子分跡」の領域は当関を含んだと考えられる。京極政経の押妨は以後も続いたらしく、土肥氏の拠城である番場の鎌刃かまは城には京極氏被官の堀氏が入り、堀氏が浅井氏に属すると当関もその管轄下に属したと思われる。

〔中山道醒井宿〕

江戸時代の宿駅としての成立時期は不明だが、近隣の宿駅と同様、慶長七―八年(一六〇二―〇三)頃と考えられる。当宿はほぼ醒井村一村で構成され、幕府道中奉行支配のもとに公用旅行者を無賃または安い御定賃銭で継立てるなどの義務を負う反面、一般旅行者の運送や宿泊で稼ぐ特権を有していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「醒井宿」の解説

醒井宿

(滋賀県米原市)
湖国百選 街道編指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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