釈堂村(読み)しやかどうむら

日本歴史地名大系 「釈堂村」の解説

堂村
しやかどうむら

[現在地名]山形市釈迦堂・中道なかみち松波まつなみ一―五丁目

妙見寺みようけんじ村の東に位置し、馬見まみさき川沿岸段丘上に立地。村名は東端にある法来ほうらい寺の釈迦堂に由来する。かつては山原やまはら(のちの妙見寺村)に含まれていたが、元和年間(一六一五―二四)頃分村したという。なお唐松からまつ村と称する村が小白川こじらかわ村から馬見ヶ崎川を隔てた地にあり、慶長年間(一五九六―一六一五)以前は六〇戸ほどの集落であったが、最上義光により新しく笹谷ささや街道が開かれ、街道沿いに新集落が形成され当村ができると、当村枝村となり、漸次街道沿いに移転したという。


堂村
しやかどうむら

[現在地名]日立市神田かんだ

久慈川下流の左岸低地に位置し、ほぼ中央を落見おちみ川が東流、やや東寄りを岩城相馬いわきそうま街道が通る。東は下土木内しもどぎうち村。

寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「釈迦堂村」と記され、「水府志料」に「古昔釈迦堂ありし地故名づく」とある。天保一三年(一八四二)に神田村と改称され、安政年間(一八五四―六〇)の「加藤寛斎随筆」の天保御検地合分村名の条に「釈迦堂村改 神田村」と記される。


堂村
しやかどうむら

[現在地名]黒部市釈迦堂

十二貫野じゆうにかんの台地布施ふせ川の間に位置し、東は内生谷うちゆうだに村、西は阿弥陀堂あみだどう村。「越中志徴」には「郷村名義抄に、此所に往古釈迦堂御座候に付、則村名に成候由申伝候」とみえる。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。正保郷帳では高二六六石余、田方一七町四反余・畑方三反余、新田高五四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一四二石、免五ツ八歩、小物成は山役二二匁・蝋役八匁・漆役一匁・鍛冶炭役一〇匁・鮭役三五匁三分・鱒役一匁・鮎川役三匁(三箇国高物成帳)。元禄三年(一六九〇)布施川の大洪水により引高四九石、享保八年(一七二三)から六度の手上高により天保一一年(一八四〇)の草高一一八石余(「高免帳」杉木家文書)


堂村
しやかどうむら

[現在地名]志賀町釈迦堂

直海のうみ村の北、米町こんまち川上流にあり、北・東・西の三方を山に囲まれる。北東隅の刈越かりこ峠を越えると鹿島かしま土川つちかわ(現中島町)鎮守八幡神社はかつて丈六の釈迦像を神体としており(能登名跡志)、村名もこれによるものであろう。直海村高位たかいから分村したと伝える(羽咋郡誌)。元和六年(一六二〇)の検地高三六五石(「六拾四ヶ村明細記」安成寺文書)


堂村
しやかどうむら

[現在地名]富合町釈迦堂

緑川南岸縁に立地、北は川を挟んで上益城郡犬淵いぬぶち(現嘉島町)、西は杉島すぎしま村と平野部を分ち合う。村名について大慈だいじ(現熊本市)の開山寒巌義尹が当地に釈迦堂を建立、極楽寺という草堂を営んだことにちなむという。同寺は明治初年廃寺となり、敷地も河川改修の折に河底に沈み、地名のみが当時の趣を伝えるという。慶長国絵図に村名がみえる。杉島手永に属し、正保郷帳によると高五一八石六斗余、うち田方二九九石五斗余・畠方二一九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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