日本歴史地名大系 「金沢柵跡」の解説
金沢柵跡
かねざわのさくあと
「保元物語」に「八幡殿後三年ノ合戦ニ、出羽金沢城ヲ攻給ヒシ時」とあるのが文献上の初見。「奥州後三年記」に、清原武衡が家衡に向かって「金沢の柵といふ所あり」、「二人相具して、沼柵をすてゝかなざはにうつりぬ」とあるので、それ以前から柵があった。その発祥は先住民族のチャシ(砦)で(横手郷土史資料)、前九年の役(一〇五一―六二)頃には、すでに清原武則の居城として(徳政夜話)柵のある丘陵に人工の手が加えられたと伝えられ、後三年の役(一〇八三―八七)で、清原武衡・家衡の本拠として源義家・藤原清衡連合軍との決戦場となった(奥州後三年記)。この柵は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報