金沢柵跡(読み)かねざわのさくあと

日本歴史地名大系 「金沢柵跡」の解説

金沢柵跡
かねざわのさくあと

[現在地名]横手市金沢字安本館

金沢本町かねざわもとまち村の南部丘陵(一七二メートル)上に位置し、平地から頂上までが九一メートルあって、平鹿ひらか仙北せんぼく二郡の平野の大半を一望できる。丘陵の東麓から北麓をくりや川が巡り、東は谷を隔てて奥羽山脈に連なり、北は川を隔てて金沢本町村の家並。西麓を羽州街道が南北に走り、南は岩瀬いわせ(敵が沢)東西に深く細く食い込んで断崖を形成し、柵の周囲は四方急崖をなし、天然の要害となっている。

「保元物語」に「八幡殿後三年ノ合戦ニ、出羽金沢城ヲ攻給ヒシ時」とあるのが文献上の初見。「奥州後三年記」に、清原武衡が家衡に向かって「金沢の柵といふ所あり」、「二人相具して、沼柵をすてゝかなざはにうつりぬ」とあるので、それ以前から柵があった。その発祥は先住民族チャシ(砦)(横手郷土史資料)、前九年の役(一〇五一―六二)頃には、すでに清原武則居城として(徳政夜話)柵のある丘陵に人工の手が加えられたと伝えられ、後三年の役(一〇八三―八七)で、清原武衡・家衡の本拠として源義家・藤原清衡連合軍との決戦場となった(奥州後三年記)。この柵は孔雀くじやく(横手郷土史資料)金洗かねあらい城・厨川の城(六郡三十三観音巡礼記)ともよばれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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