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岩手県盛岡市北西部にあった平安時代の城柵(じょうさく)。陸奥(むつ)の豪族安倍(あべ)氏の拠点。北上川と雫石(しずくいし)川の合流点に近い大館(おおだて)遺跡にあてる説が有力である。前九年の役(1051~62)で源頼義(よりよし)・清原武則(きよはらのたけのり)連合軍に対する安倍氏の最後の抗戦場となり、1062年(康平5)9月17日ついに敗れ、貞任(さだとう)らは戦死、宗任(むねとう)らは降伏して安倍氏はまったく滅んだ。
[庄司 浩]
古代末期,東北地方の奥六郡を支配した安倍氏の軍事的拠点。奥六郡では最も北の陸奥国岩手郡に位置し,北上川流域の盛岡市に比定されている。「陸奥話記」には要害の地に立地し,楼・櫓を構えて兵力を蓄えたようすが記されている。1062年(康平5)安倍貞任(さだとう)・宗任兄弟が源頼義らに攻められて,安倍氏滅亡の地となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…57年に父頼時が戦死してからは,安倍一族の総帥となり,同年冬には黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡藤沢町)において頼義軍を破った。しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵と敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。源義家が〈衣のたてはほころびにけり〉とうたいかけ,貞任が〈年をへし糸のみだれのくるしさに〉とこたえたという故事は,衣川柵脱出のときのことという。…
…この戦況を転回させる契機になったのが,出羽国の俘囚長清原武則の参戦である。62年7月武則の援助を得た頼義は,小松柵以下の安倍氏の砦を抜き,9月7日ついに貞任を厨川柵(くりやがわのさく)(盛岡市)に破った。貞任は戦死し,降参した宗任(むねとう)らの一族は伊予国と大宰府に流されて,安倍氏は滅亡した。…
※「厨川柵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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