秋田県横手市金沢にあった平安時代の城柵(じょうさく)。清原(きよはら)氏の本拠地で、後三年の役(1083~87)の決戦場となる。1086年(応徳3)源義家(よしいえ)が清原家衡(いえひら)を沼柵(ぬまのき)に攻め大雪で撤退すると、家衡の叔父武衡(たけひら)も家衡に加担し、さらに金沢柵に拠(よ)った。1087年(寛治1)義家は糧道を断ってこれを落とし、戦役を終わらせた。義家が大江匡房(まさふさ)から兵法を学び、飛ぶ雁(かり)の列の乱れで伏兵を知り難を免れた話や、弟の新羅三郎(しんらさぶろう)(源義光(よしみつ))が官をなげうち都から救援に駆けつけた話、若武者鎌倉権五郎景正(ごんごろうかげまさ)が右の目を射られながらもその敵を射殺し、土足で顔を踏んで矢を抜こうとした三浦為次(ためつぐ)の無礼をとがめた話などはこの柵での戦いのことである。
[庄司 浩]
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古代末期における東北地方の在地豪族清原氏の軍事的拠点。山北(せんぼく)3郡のうち出羽国山本郡(現,秋田県横手市金沢)に所在。比高約90mの急峻な丘陵に立地し,発掘調査も行われている。1087年(寛治元)の後三年の役で,源義家が清原家衡(いえひら)を攻め,清原氏滅亡の地となった。
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…ここにおいて清衡は義家に援を請い,戦いは義家・清衡対家衡のそれに発展した。家衡ははじめ沼柵(現,秋田県雄物川町)によって戦い,いったん義家を撃退し,ついで叔父武衡のすすめに従って金沢柵(現,秋田県仙北郡仙南村,横手市)に移った。大雪と飢餓のため戦いは困難をきわめたが,義家の弟新羅三郎義光が官職をなげうって駆けつけるということもあって,87年11月義家らはようやく金沢柵をおとし,勝利を収めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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