金沢柵(読み)かねざわのき

精選版 日本国語大辞典 「金沢柵」の意味・読み・例文・類語

かねざわ‐の‐きかねざは‥【金沢柵】

  1. 後三年の役(一〇八三‐八七)の時、出羽の豪族清原武衡・家衡が拠った城柵。秋田県横手市金沢の遺構が確認されている。かなざわのき。千福金沢城。厨川(くりやがわ)柵。孔雀柵。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本の城がわかる事典 「金沢柵」の解説

かねざわのさく【金沢柵】

秋田県横手市金沢にあった古代の城柵。清原氏居城で、後三年の役(1083~87年)の激戦地となった古戦場である。金沢柵のあった場所には古くから、蝦夷チャシ(城砦)があったとされるが、前九年の役(1051~62年)での安倍氏討伐の功績から鎮守府将軍に任じられ、安倍氏に代わって奥羽・出羽2国随一の大勢力となった当主清原武則(たけのり)が居城として整備したといわれる。その後、清原氏の内部対立(清原真衡(さねひら)と清衡(きよひら)の対立)をきっかけに後三年の役(1083~87年)が起こり、再び源義家(みなもとのよしいえ)(陸奥守)の介入を招いた。義家の調停により、両者の対立は解決したかに見えたが抗争再燃清原清衡・源義家と清原真衡の戦いとなった。清衡と義家の連合軍は沼柵(ぬまのさく)(横手市)の真衡を攻撃したが、冬季戦の用意が不十分だったため敗走した。その後、真衡は難攻不落といわれていた金沢柵に拠点を移し、清原武貞の弟の清原武衡とともに籠もった。連合軍は1087年(寛治1)、再びこれを攻めたが落城させることはできず、柵を包囲して兵糧攻めを行った。その結果、食糧の尽きた真衡と武衡は金沢柵に自ら火を放って敗走。武衡、真衡が捕らえられて、同年12月には乱は終息した。この戦いの後、清原清衡は、実父(藤原経清)の姓に戻し、栄華を極めた奥州藤原氏3代の初代となった。この金沢柵のあった場所については諸説あるが、同市の八幡山にあったとする説もその一つ。現在、その比定地が金沢公園(史跡公園)となっている。公園内には塹壕や柱などの城郭の遺構が残っており、これが金沢柵のものとされている。現在、金沢八幡神社がある場所が二の丸とされ、その右側の高台が本丸跡、神社の後ろにある相撲場は北の丸跡、神社を一段下がった平場(現在の駐車場の隣)が金沢柵の兵具倉跡とされている。なお、公園内には横手市が運営する後三年の役金沢資料館がある。JR奥羽本線横手駅からバス約20分。◇「かねさわのき」、孔雀(くじゃく)城、金洗(かねあらい)城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金沢柵」の意味・わかりやすい解説

金沢柵
かねさわのき

秋田県横手市金沢にあった平安時代の城柵(じょうさく)。清原(きよはら)氏の本拠地で、後三年の役(1083~87)の決戦場となる。1086年(応徳3)源義家(よしいえ)が清原家衡(いえひら)を沼柵(ぬまのき)に攻め大雪で撤退すると、家衡の叔父武衡(たけひら)も家衡に加担し、さらに金沢柵に拠(よ)った。1087年(寛治1)義家は糧道を断ってこれを落とし、戦役を終わらせた。義家が大江匡房(まさふさ)から兵法を学び、飛ぶ雁(かり)の列の乱れで伏兵を知り難を免れた話や、弟の新羅三郎(しんらさぶろう)(源義光(よしみつ))が官をなげうち都から救援に駆けつけた話、若武者鎌倉権五郎景正(ごんごろうかげまさ)が右の目を射られながらもその敵を射殺し、土足で顔を踏んで矢を抜こうとした三浦為次(ためつぐ)の無礼をとがめた話などはこの柵での戦いのことである。

[庄司 浩]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「金沢柵」の意味・わかりやすい解説

金沢柵【かねざわのさく】

古代,出羽(でわ)国の清原氏の居城。秋田県横手市金沢の南部丘陵にあった。孔雀(くじゃく)城・金洗(かねあらい)城ともいう。前身は蝦夷のチャシ(砦)とみられ,前九年の役頃に清原武則の居城として整備されたと伝える。後三年の役では清原武衡(たけひら)・家衡の本拠として源義家藤原清衡連合軍との合戦の舞台となった。遺構では建物の柱跡が確認されているが,出土品は鎌倉・室町期のものが多い。

金沢柵【かなざわのさく】

金沢柵(かねざわのさく)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「金沢柵」の解説

金沢柵
かねざわのさく

古代末期における東北地方の在地豪族清原氏の軍事的拠点。山北(せんぼく)3郡のうち出羽国山本郡(現,秋田県横手市金沢)に所在。比高約90mの急峻な丘陵に立地し,発掘調査も行われている。1087年(寛治元)の後三年の役で,源義家が清原家衡(いえひら)を攻め,清原氏滅亡の地となった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の金沢柵の言及

【後三年の役】より

…ここにおいて清衡は義家に援を請い,戦いは義家・清衡対家衡のそれに発展した。家衡ははじめ沼柵(現,秋田県雄物川町)によって戦い,いったん義家を撃退し,ついで叔父武衡のすすめに従って金沢柵(現,秋田県仙北郡仙南村,横手市)に移った。大雪と飢餓のため戦いは困難をきわめたが,義家の弟新羅三郎義光が官職をなげうって駆けつけるということもあって,87年11月義家らはようやく金沢柵をおとし,勝利を収めた。…

※「金沢柵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android