金津宿(読み)かなづしゆく

日本歴史地名大系 「金津宿」の解説

金津宿
かなづしゆく

[現在地名]角田市尾山

尾山おやま村の中心部にある町場。金津町ともよばれる。宿中央の南北道筋荒町あらまち、その北に横町よこまちがある。荒町の南、東西の道筋に沿って立町たちまちがあり、西方豆腐町とうふまち、東に内町うちまちが続く。札場は荒町にあった。中世から亘理わたり丘陵を越えて亘理(現亘理郡亘理町)方面へ向かう足がかりとなる地として重要で、天正一〇年(一五八二)八月、相馬氏と対戦していた伊達輝宗・政宗父子は角田城から金津へ移って二〇日ほど在留したのち、小斎こさい(現伊具郡丸森町)へ陣を移した(性山公治家記録)。同一九年の伊達政宗移封の際は、金津に着座佐々若狭(元綱)が配されたという(政宗記)

奥州街道の白石しろいし宿、舟岡ふなおか槻木つきのき(現柴田郡柴田町)大河原おおがわら(現同郡大河原町)の各宿から分岐した脇往還角田本郷に集まり、角田宿から風呂ふろ渡・笠松かさまつ渡を経て当宿に入る。さらに明通あきどおし峠を越えて亘理宿馬船まふね峠を越えて山下やました宿(現亘理郡山元町)へと至り、江戸浜街道へ結ばれていた。


金津宿
かなづしゆく

[現在地名]金津町新・六日・天王・水口・十日・八日・坂ノ下・脇出・春日

北陸街道竹田たけだ川の交差する地にあり、中世には川の南部は河口かわぐち溝江みぞえ郷、北部は坪江つぼえ庄に属していた。裏文書に文明五年(一四七三)の銘のある「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(大乗院文書)には

<資料は省略されています>

とあり、室町時代すでに金津宿とよばれている。また当時朝倉氏の支城もあり、加越交通の要衝として町並が形成されていた。「大乗院寺社雑事記」文明一二年四月七日条には朝倉氏と甲斐氏の合戦に際して、「金津町屋ハ焼了、其外ハ孫衛門(朝倉)持堅云々」とある。

江戸時代には南金津宿(浅田与次右衛門)・北金津宿(黒坂源助)それぞれ一人ずつの宿問屋がおり、三〇匹の役馬(新町三匹・南金津一二匹・北金津一五匹)が義務づけられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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