鈴木万里(読み)すずき・ばんり

朝日日本歴史人物事典 「鈴木万里」の解説

鈴木万里(初代)

没年:文化13.7.29(1816.8.22)
生年:生年不詳
江戸後期長唄唄方。初代荻江露友の門弟と伝えられる。安永3(1774)年に江戸市村座に鈴木熊次郎の名で出演した記録があるが,活動の中心は後年に上った大坂であった。天明3(1783)年ごろ,大坂角の芝居に出演したのをはじめ,同年の大坂中の芝居ではメリヤス唄浄瑠璃を唄うなど,江戸長唄を大坂に広めた功績は大きい。寛政7(1795)年ごろ,大坂の劇場専属の唄方となり,長唄ばかりでなく豊後節系浄瑠璃の太夫(語り手)も勤め好評を得る。それも美声と洗練された唄いぶりがあってこそであろう。文化5(1808)年に亀寿斎と改名。鈴木万里の名跡は4代まで続いた。

(長葉子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鈴木万里」の解説

鈴木万里(初代) すずき-ばんり

?-1816 江戸時代中期-後期の長唄唄方。
江戸の人といわれ,初代荻江露友(おぎえ-ろゆう)の門弟とされる。江戸市村座にでたが,のち大坂にいき,天明4年中の芝居に出演,好評を博す。「長唄の親玉」と称され,上方に江戸長唄や豊後節を普及させた。文化13年7月29日死去。前名は鈴木熊次郎。後名は鈴木亀寿斎。

鈴木万里(4代) すずき-ばんり

?-? 江戸時代後期の長唄唄方。
初代の門人。のち3代湖出(こいで)市十郎に入門,湖出豊吉を名のる。天保(てんぽう)3年(1832)京都で4代鈴木万里を襲名。豊後(ぶんご)節もかね,独吟,鼓唄(つづみうた)などもたくみであった。初名は竹山豊吉。前名は田中豊吉。

鈴木万里(2代) すずき-ばんり

1775-1819 江戸時代後期の長唄唄方。
安永4年生まれ。上方(かみがた)で活躍した初代の門人で,その養子。初代のワキをつとめ,文化6年2代を襲名。江戸長唄と豊後(ぶんご)節で知られる。文政2年8月15日死去。45歳。前名は鈴木宗吉(惣吉)。

鈴木万里(3代) すずき-ばんり

?-? 江戸時代後期の長唄唄方。
初代の門人。初代,2代のワキをつとめ,文政3年(1820)3代を襲名。文政末ごろまで活躍した。前名は鈴木佐吉(左橘)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の鈴木万里の言及

【長唄】より

…また,長い間,市川家荒事舞踊の伴奏音楽をつとめていた大薩摩節が衰退し,1826年(文政9)その家元権が4世杵屋三郎助(のちの10代目杵屋六左衛門)に預けられた結果,大薩摩節の旋律を加味した長唄が積極的に作曲されるようになった。なお,天明期(1781‐89)から文化期にかけて,初世鈴木万里らによって江戸長唄が上方に紹介・普及された結果,文化年間には大坂に〈チリカラ連〉と呼ばれる江戸長唄愛好者の団体が生まれた。この期の唄方には2世芳村伊三郎,2世芳村伊十郎,初世富士田千蔵,三味線方に9代目杵屋六左衛門,2世杵屋正次郎,4世杵屋三郎助,囃子方では4世望月太左衛門,4世田中伝左衛門らが活躍している。…

※「鈴木万里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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