豊後節(読み)ブンゴブシ

デジタル大辞泉 「豊後節」の意味・読み・例文・類語

ぶんご‐ぶし【豊後節】

浄瑠璃流派の一。享保(1716~1736)の末ごろ、都太夫一中門人宮古路国太夫豊後掾ぶんごのじょう)が京都で創始。特に江戸で流行したが、元文4年(1739)風俗を乱すとの理由で禁止された。
1およびそれから分派した常磐津ときわず富本節清元節新内節薗八そのはち繁太夫しげたゆうなどの総称豊後浄瑠璃。豊後諸流。
2のうち、特に常磐津節・富本節・清元節の三派。豊後三派。豊後三流

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精選版 日本国語大辞典 「豊後節」の意味・読み・例文・類語

ぶんご‐ぶし【豊後節】

  1. 〘 名詞 〙 浄瑠璃節の一派。享保(一七一六‐三六)頃、都一中の門人、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の語り出したもの。また、これから派生した常磐津(ときわず)節・富本節・清元節・新内節・薗八(そのはち)節・繁太夫節などの総称。宮古路節。豊後浄瑠璃。
    1. [初出の実例]「御武家さへ豊後ふしにて江戸は済」(出典:雑俳・雲鼓評万句合‐寛延三(1750))

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊後節」の意味・わかりやすい解説

豊後節
ぶんごぶし

浄瑠璃(じょうるり)の流派名。宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)(?―1740)が語り出した浄瑠璃。豊後掾は京都の都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)の門弟で都国太夫半中(くにたゆうはんちゅう)といったが、1721年(享保6)ごろ独立して宮古路国太夫半中を名のり、当時その曲風は半中節、国太夫節とよばれてもてはやされた。半中はのちに宮古路豊後と改名し、34年名古屋へ赴き、同年中に江戸へも進出するに及んで、両地では豊後節という名で好評を博した。したがって、狭義の豊後節は、名古屋と江戸におけるこの豊後掾の浄瑠璃をさす。豊後節は一中節に文弥節を加えたような芸風で、きわめて扇情的であったと伝えられる。ことにこのころ心中沙汰(ざた)、情死などが多発し、この男女間の風儀の乱れはすべて豊後節によると思われたため、江戸幕府により1739年(元文4)禁止にも等しい過酷な弾圧が加えられた。43年(寛保3)あたりからしだいに緩和され、江戸に残った門弟によって文字(もじ)太夫の常磐津(ときわず)節、その社中から独立した小文字(こもじ)太夫の富本(とみもと)節、さらに分派独立した延寿(えんじゅ)太夫の清元(きよもと)節が生まれる。これをも包含して豊後節とよぶこともあるが、現今では通常この三つを豊後三流とよんでいる。また同じ門弟の加賀太夫から改名した富士松薩摩掾(ふじまつさつまのじょう)、さらに分流した鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)や豊島国太夫らの諸流を総称した新内節があり、また上方(かみがた)で育ちそれぞれ一派をなした豊美繁(とよみしげ)太夫、宮古路薗八(そのはち)とその門弟から分かれた春富士正伝(はるふじしょうでん)や宮薗鸞鳳軒(みやぞのらんぽうけん)などの諸流は国太夫節の名で総称された。なお、以上の流派をすべて包括して豊後系浄瑠璃とも呼称している。

[林喜代弘・守谷幸則]

『町田佳聲著『ラジオ邦楽の鑑賞』(1950・日本放送出版協会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「豊後節」の意味・わかりやすい解説

豊後節 (ぶんごぶし)

三味線音楽の一流派。宮古路豊後掾の浄瑠璃を〈豊後節〉といったが,広義にはその弟子系の創始した常磐津節,富本節,清元節,新内節,宮薗節などをも含めていう。

 宮古路豊後掾の没後,その弟子たちが分派独立する。江戸では文字太夫が1747年(延享4)に常磐津節を創始,そのワキ語り品太夫改め小文字太夫は,翌48年(寛延1)に富本節を創始し,同門の加賀太夫は1745年に富士松薩摩(1746年富士松薩摩掾)と名のり一派を立てた。一方,上方では1745年ごろ繁太夫(しげたゆう)が豊美(とよみ)姓で分派(繁太夫節),そのほか難波路(浪花路とも。1750),大和路(1753),春富士(1759),宮薗(1762)などが分派独立したが,江戸のような独立した流派とならず,相互の関係は密接であった。たとえば宮薗の曲を大和路の太夫が語り,春富士が三味線を弾くといった例である。さらにそれぞれの姓は流派の特徴をあらわすとは限らなかったようで,一人の太夫が宮古路,大和路,宮薗などと使い分けているが,その理由はわからない。そしてこの語り物は共通していて,たとえば《春富士都錦》の序に〈宮古路大和路の月より春富士の雪宮薗の花まで残りなく正し集め〉たとあるように,同じ歌詞であった。《宮古路月下の梅》《宮古路大寄蔵》など宮古路を頭におく各種の正本類もすべて同じである。これらを総称して,宝暦・明和(1751-72)のころは〈国太夫節〉あるいは〈宮古路浄瑠璃〉(ともに,もとは豊後掾を名のる以前の宮古路国太夫半中が上方で語った浄瑠璃の称)といい,天明(1781-89)以降は〈豊後節〉あるいは単に〈ぶんご〉といい,幕末まで行われた。その一部は5世都一中の時代に江戸の一中節に移され,現存している。江戸では前記常磐津,富本,さらに富本から分派した清元を豊後三流といい,前記富士松薩摩の門から分派した鶴賀若狭掾,さらにそれらをまとめた新内節,のちに江戸に移された宮薗節を総称して豊後系浄瑠璃という。豊後系浄瑠璃の統領的な位置にあったのは,江戸では常磐津節,上方では宮薗節らしく,また江戸における鳥羽屋里長一派は,上方の春富士一派によく似ており,常磐津,富本,一中節などを弾いている。この理由もよくわからない。
清元節 →新内節 →常磐津節 →富本 →宮薗節
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊後節」の意味・わかりやすい解説

豊後節
ぶんごぶし

三味線音楽の一流派。普通,宮古路豊後掾の創始した浄瑠璃をさすが,広義にはそこから派生した常磐津節富本節清元節の総称としても用いる (この場合豊後三流ともいう) 。豊後節は,宮古路豊後掾が一中節から出ているため同流の影響が強い。豊後掾は,やわらかく艶麗な一中節の語り方を,一層哀艶で扇情的なものに変え,心中物を扱ったために,豊後節は短時日のうちに特に江戸で大流行した。しかしそのため江戸幕府から心中の元凶とにらまれ,同流は元文1 (1736) 年と同4年に大弾圧を受けてほぼ消滅した。しかし豊後掾の弟子たちによって種々の流派が派生し,上方では宮古路薗八が薗八節 (→宮薗節 ) ,豊美繁太夫が繁太夫節を創出した。江戸では文字太夫が常磐津節を興し,そこから富本節,清元節が派生し,これら豊後三流は歌舞伎の舞踊音楽として発展した。また現在豊後節の語り口をいちばん残しているといわれる新内節は,豊後掾の弟子加賀太夫が改姓独立して名のった富士松薩摩掾の系統をひき,遊里を活躍の場とした。

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百科事典マイペディア 「豊後節」の意味・わかりやすい解説

豊後節【ぶんごぶし】

浄瑠璃の流派名。1731年,初世都太夫一中の門弟が宮古路(みやこじ)豊後掾〔?-1740〕を名乗って語り始めたもので,江戸で大流行したが,その内容は心中を扱ったものが多く,風俗を乱すという理由で幕府から禁止され,劇場への出演も自宅教授もできなくなった。豊後掾は京都へ戻ったが,江戸に残った門弟たちによって復興が行われ,以後常磐津節,富本節,清元節,新内節,宮薗節,繁太夫などの諸流派が現れた。これら豊後節の系統をひく浄瑠璃を豊後系浄瑠璃という。
→関連項目新内節常磐津節

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旺文社日本史事典 三訂版 「豊後節」の解説

豊後節
ぶんごぶし

江戸中期におこった浄瑠璃の一派
宝永(1704〜11)ころ一中節の流祖都太夫一中の門人宮古路豊後掾 (みやこじぶんごのじよう) (?〜1740)が始め,享保年間(1716〜36)江戸に下った。内容は世話物中心で,濃艶な曲調,扇情的な語り方のため禁止されたが,人や名を変えて分派が出た。常磐津・清元・富本を豊後三派と呼ぶ。写実的な義太夫節に対し歌謡的である。

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世界大百科事典(旧版)内の豊後節の言及

【浄瑠璃】より

…肥前節,半太夫節,河東節を江戸節と総称する。 また京の都太夫一中の弟子宮古路豊後掾の曲節は江戸で豊後節として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾が富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。…

【常磐津節】より

…浄瑠璃の一流派。豊後系浄瑠璃(豊後節)のうち,いわゆる豊後三流の一。江戸の歌舞伎音楽(出語り)として発達した。…

【常磐津文字太夫】より

…いずれも大入りで大当り。以後豊後節は江戸で大流行したが,36年(元文1)3月市村座の文字太夫の《小夜中山浅間嶽》に上演中止の沙汰が出され,39年には豊後節は一切禁止となった。文字太夫は師を助けて豊後節の隆盛に努めたが,逆に文字太夫の人気が豊後節の弾圧を呼んだともいえよう。…

【宮古路薗八】より

…初世の没後2世を継いだが,1762年(宝暦12)ころ宮薗豊前と改名,さらに66年(明和3)宮薗鸞鳳軒(らんぽうけん)と改め,宮薗節を創始した。劇場出演はなかったが,当時上方で盛んだった国太夫節(豊後節)の統領的存在であったらしい。美声で作詞・作曲に優れ,多くの作品を書いたが,現在10段が残されている。…

※「豊後節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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