浄瑠璃(じょうるり)の流派名。宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)(?―1740)が語り出した浄瑠璃。豊後掾は京都の都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)の門弟で都国太夫半中(くにたゆうはんちゅう)といったが、1721年(享保6)ごろ独立して宮古路国太夫半中を名のり、当時その曲風は半中節、国太夫節とよばれてもてはやされた。半中はのちに宮古路豊後と改名し、34年名古屋へ赴き、同年中に江戸へも進出するに及んで、両地では豊後節という名で好評を博した。したがって、狭義の豊後節は、名古屋と江戸におけるこの豊後掾の浄瑠璃をさす。豊後節は一中節に文弥節を加えたような芸風で、きわめて扇情的であったと伝えられる。ことにこのころ心中沙汰(ざた)、情死などが多発し、この男女間の風儀の乱れはすべて豊後節によると思われたため、江戸幕府により1739年(元文4)禁止にも等しい過酷な弾圧が加えられた。43年(寛保3)あたりからしだいに緩和され、江戸に残った門弟によって文字(もじ)太夫の常磐津(ときわず)節、その社中から独立した小文字(こもじ)太夫の富本(とみもと)節、さらに分派独立した延寿(えんじゅ)太夫の清元(きよもと)節が生まれる。これをも包含して豊後節とよぶこともあるが、現今では通常この三つを豊後三流とよんでいる。また同じ門弟の加賀太夫から改名した富士松薩摩掾(ふじまつさつまのじょう)、さらに分流した鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)や豊島国太夫らの諸流を総称した新内節があり、また上方(かみがた)で育ちそれぞれ一派をなした豊美繁(とよみしげ)太夫、宮古路薗八(そのはち)とその門弟から分かれた春富士正伝(はるふじしょうでん)や宮薗鸞鳳軒(みやぞのらんぽうけん)などの諸流は国太夫節の名で総称された。なお、以上の流派をすべて包括して豊後系浄瑠璃とも呼称している。
[林喜代弘・守谷幸則]
『町田佳聲著『ラジオ邦楽の鑑賞』(1950・日本放送出版協会)』
三味線音楽の一流派。宮古路豊後掾の浄瑠璃を〈豊後節〉といったが,広義にはその弟子系の創始した常磐津節,富本節,清元節,新内節,宮薗節などをも含めていう。
宮古路豊後掾の没後,その弟子たちが分派独立する。江戸では文字太夫が1747年(延享4)に常磐津節を創始,そのワキ語り品太夫改め小文字太夫は,翌48年(寛延1)に富本節を創始し,同門の加賀太夫は1745年に富士松薩摩(1746年富士松薩摩掾)と名のり一派を立てた。一方,上方では1745年ごろ繁太夫(しげたゆう)が豊美(とよみ)姓で分派(繁太夫節),そのほか難波路(浪花路とも。1750),大和路(1753),春富士(1759),宮薗(1762)などが分派独立したが,江戸のような独立した流派とならず,相互の関係は密接であった。たとえば宮薗の曲を大和路の太夫が語り,春富士が三味線を弾くといった例である。さらにそれぞれの姓は流派の特徴をあらわすとは限らなかったようで,一人の太夫が宮古路,大和路,宮薗などと使い分けているが,その理由はわからない。そしてこの語り物は共通していて,たとえば《春富士都錦》の序に〈宮古路大和路の月より春富士の雪宮薗の花まで残りなく正し集め〉たとあるように,同じ歌詞であった。《宮古路月下の梅》《宮古路大寄蔵》など宮古路を頭におく各種の正本類もすべて同じである。これらを総称して,宝暦・明和(1751-72)のころは〈国太夫節〉あるいは〈宮古路浄瑠璃〉(ともに,もとは豊後掾を名のる以前の宮古路国太夫半中が上方で語った浄瑠璃の称)といい,天明(1781-89)以降は〈豊後節〉あるいは単に〈ぶんご〉といい,幕末まで行われた。その一部は5世都一中の時代に江戸の一中節に移され,現存している。江戸では前記常磐津,富本,さらに富本から分派した清元を豊後三流といい,前記富士松薩摩の門から分派した鶴賀若狭掾,さらにそれらをまとめた新内節,のちに江戸に移された宮薗節を総称して豊後系浄瑠璃という。豊後系浄瑠璃の統領的な位置にあったのは,江戸では常磐津節,上方では宮薗節らしく,また江戸における鳥羽屋里長一派は,上方の春富士一派によく似ており,常磐津,富本,一中節などを弾いている。この理由もよくわからない。
→清元節 →新内節 →常磐津節 →富本 →宮薗節
執筆者:竹内 道敬
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…肥前節,半太夫節,河東節を江戸節と総称する。 また京の都太夫一中の弟子宮古路豊後掾の曲節は江戸で豊後節として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾が富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。…
…浄瑠璃の一流派。豊後系浄瑠璃(豊後節)のうち,いわゆる豊後三流の一。江戸の歌舞伎音楽(出語り)として発達した。…
…いずれも大入りで大当り。以後豊後節は江戸で大流行したが,36年(元文1)3月市村座の文字太夫の《小夜中山浅間嶽》に上演中止の沙汰が出され,39年には豊後節は一切禁止となった。文字太夫は師を助けて豊後節の隆盛に努めたが,逆に文字太夫の人気が豊後節の弾圧を呼んだともいえよう。…
…初世の没後2世を継いだが,1762年(宝暦12)ころ宮薗豊前と改名,さらに66年(明和3)宮薗鸞鳳軒(らんぽうけん)と改め,宮薗節を創始した。劇場出演はなかったが,当時上方で盛んだった国太夫節(豊後節)の統領的存在であったらしい。美声で作詞・作曲に優れ,多くの作品を書いたが,現在10段が残されている。…
※「豊後節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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