精選版 日本国語大辞典 「鈴木雅之」の意味・読み・例文・類語 すずき‐まさゆき【鈴木雅之】 幕末の国学者。通称は一平、昌之。号は霞山、霞岳、霞堂。下総国(千葉県)の生まれ。伊能穎則(ひでのり)に師事。和漢の学、皇典の学に専心し、特に古道では平田派に通じて一家の見識をもった。維新後、明治政府に出仕。著に「撞賢木(つきのさかき)」「古事記訳解」「歌学正言」など。天保八~明治四年(一八三七‐七一) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
改訂新版 世界大百科事典 「鈴木雅之」の意味・わかりやすい解説 鈴木雅之 (すずきまさゆき)生没年:1838-72(天保9-明治5) 幕末・維新期の国学者,神道学者。通称一平,霞堂と号す。下総の農家の生れ。平田篤胤の影響を受けながら,独力で和漢の学を修得。歌は神山魚貫(なつら)に学び,とくに長歌を得意とした。維新後,伊能穎則によってその学識を認められ,大学少助教ついで宣教使中講義生に抜擢されたが,志なかばにして急逝した。主著の《撞賢木(つきのさかき)》をはじめ,《古事記訳解》《日本書紀名物正訓》《民政要論》《歌学正言》など著書は多い。執筆者:鈴木 淳 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鈴木雅之」の解説 鈴木雅之 すずき-まさゆき 1837-1871 幕末-明治時代の国学者。天保(てんぽう)8年4月生まれ。和歌を神山魚貫(なつら)にまなぶ。国学者伊能頴則(いのう-ひでのり)にみとめられ,維新後,大学少助教,神祇官(じんぎかん)宣教使中講義生となった。明治4年4月21日死去。35歳。下総(しもうさ)埴生郡(千葉県)出身。名ははじめ昌之。号は霞山,霞堂など。著作に「撞賢木(つきのさかき)」「天津祝詞(あまつのりと)考」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鈴木雅之」の意味・わかりやすい解説 鈴木雅之すずきまさゆき [生]天保8(1837).下総[没]明治4(1871).4.21?江戸時代後期の国学者。農民出身。神山魚貫,伊能穎則に和歌,国学を学び,さらに平田派国学を学んで,一家の見を立てた。維新後,宣教中講義生となり,まもなく没した。著書『撞賢木』『民政要治』『歌学正言』『古事記訳解』。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
367日誕生日大事典 「鈴木雅之」の解説 鈴木 雅之 (すずき まさゆき) 生年月日:1956年9月22日昭和時代;平成時代の歌手 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by