1918年(大正7年)にロシア・シベリア出兵を見込んだ投機的取引により米価が暴騰し、全国で積み出し禁止や安売りを求める民衆の運動が起きた。7月23日に富山県・魚津で漁師の妻らが米蔵や役所などに嘆願し、新聞が報じたことから全国に広がったとされる。93年には冷夏と日照不足による極度の不作でコメを輸入する事態となり「平成の米騒動」と呼ばれた。
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米価高騰を直接契機とする民衆暴動。江戸時代にしばしば発生し,明治維新以後でも全国的規模をもつものが3回あるが,ふつう,1918年(大正7)の場合を指す。
(1)1890年(明治23)1月18日,富山市貧民の市役所・資産家に対する救助要請行動が富山県東部にひろがり,4月から9月にかけ,鳥取,新潟,福島,山口,京都,石川,福井,滋賀,愛媛,宮城,奈良の各府県19地点に騒動が発生した。とくに佐渡相川町の場合は激烈で,6月28日から7月5日にかけ,鉱夫を中心に2000名余が蜂起,軍隊1個中隊により鎮圧された。
(2)1897年(明治30)5月下旬富山県魚津町にはじまり,8月から10月にかけ,石川,長野,山形,新潟,福井の各県10ヵ所に及んだ。長野県飯田町の騒動がもっとも大きく,9月1日から3日にかけ,約2000名が米商と警察署を襲撃した。
以上2回の米騒動は凶作による不況と米価騰貴を原因とし,江戸時代の騒動の系譜をひく。
1918年の大米騒動を引き起こした米価騰貴は凶作を原因とせず,直接的にはシベリア出兵を見越した地主と米商人の投機によるものである。また,その根底には第1次大戦中の資本主義の発展による非農業人口の増大に米の増産がともなわず,地主保護政策をとる寺内正毅内閣が外米輸入税の撤廃などの適切な処置をとらなかったという事情がある。このため米価は18年8月2日のシベリア出兵宣言とともに急騰し,神戸市を例にとると,1升当りの米価は8月1日の40銭7厘から8日には60銭8厘にまでなった。一方,輸出急増にともなうインフレ現象により勤労民衆の実質賃金は低下し,民衆の意識も,日露戦争講和反対運動や護憲運動の経験,ロシア革命の影響,民本主義思想の浸透により大きく変化し,ここに空前の大騒動を現出した。
1918年7月23日,富山県魚津町の漁民妻女たちが米の県外移出を差し止めるべく海岸に集まったのを皮切りに,富山湾沿岸一帯に米屋・有力者・役場に対する移出禁止や米の安売り要請の運動がひろがった。これが8月に入って,新聞により全国に報道されるに及んで,民心は大いに動揺した。8月10日夜京都市で被差別部落民が中心となって米屋を襲い,名古屋市でも数万の市民が米穀取引所におしかけたのを皮切りに,一挙に騒動は全国化し,8月13日には首都東京を含む18市40町30村に発生した。この日を頂点に11日から16日までが最盛期であり,8月3日より9月10日にかけての群衆行動発生回数623の65%にあたる406がこの6日間に集中しており,その大半は静岡,愛知,三重,和歌山,大阪,兵庫,岡山,広島,山口といった太平洋・瀬戸内沿岸の9府県が占める。8月17日以降は地方小都市・農村に波及し,とくに山口県や北九州の炭鉱地帯では暴動が続発した。9月11日の三池炭鉱暴動の終結で一連の米騒動は終わりを告げたが,7月23日から9月11日まで,示威・暴動の発生地点は38市153町177村に達し,青森,岩手,秋田,沖縄の4県だけは騒動が発生しなかった。10月中旬まで富山や京都では騒動が散発している。
都市の騒動参加者の主力は土方,仲仕ら自由労働者,職人,町工場の労働者である。被差別部落民が参加した地点は関西方面を中心に,22府県116市町村に達する。民衆は米屋に対し米の約半値の安売りを,富豪に対しては救済寄付金を要求し,相手が要求を入れぬとき,あるいはふだんから民衆に憎まれている場合には,家を打ちこわしたり焼いたりした。工場労働者は舞鶴や呉の海軍工厰の場合のように,局地的には暴動の主力となっているが,一般的には,分散的に騒動に加わるか,あるいは労働争議を起こして街頭の騒動に呼応した。8月中のストライキ件数はそれまでの月間最高記録の108件である。農村では地主と小作人の対立の激しい所や,飯米に困っている貧農の多い都市周辺地帯で,地主や米商が襲われた。
政府はまず警察力による鎮圧をはかったが,大都市や炭鉱の場合はほとんど効果がなく,逆に多くの警察署や派出所が襲われた。そこで京都市を手はじめに26府県34市58町28村計120ヵ所で,延べ9万名以上の軍隊が動員された。大阪・下関が約1万,門司・神戸・宇部炭鉱・戸畑が約5000,和歌山・八幡が約4000,東京・呉・広島・新原炭鉱(福岡)が約3000。大阪,神戸,呉,宇部,佐賀県相知炭鉱ではとくに激しい衝突が起こり,民衆側に死者30名以上が出た。戦前民衆暴動に出兵をみた例は,秩父事件をはじめ9回あるが,米騒動のときのような大規模出兵は空前絶後である。組織と武器をもたぬ騒動はたちまち鎮圧され,出兵下で騒動が3日と続いた例はない。また,8月14日に新聞報道が禁止されたことも騒動の終結をはやめた。検挙者は少なくとも2万5000名。うち8253名が検事処分を受け,7786名が起訴され,第一審では死刑2名,無期懲役12名,10年以上の有期刑59名を数えた。とくに被差別部落民はねらいうちに検挙され,総人口の2%を占めるにすぎない部落民が検事処分者の10%を超えるという差別裁判を受けた。大審院で死刑を宣告された2名も部落民であった。
政府は8月13日300万円の恩賜金を各府県にわかち,1000万円の国費を米価対策に支出することを発表し,各府県に指令して資産家の寄付金による米の安売りを行わせた。しかし騒動により米価が下がったとの印象を国民が抱くことをおそれ,8月28日には安売り打切りを指令し,米価対策費も400万円しか支出しなかった。このため米価はふたたび上昇し,年末には米騒動当時の水準にまで達したが,騒動後の実質収入の増加のため騒動は再発しなかった。
米騒動は組織的指導部をもたぬ大衆の自然発生的暴動であったが,1918年の場合は,江戸時代の打毀(うちこわし)とは違った意義をもっている。すなわち米騒動は独占資本・寄生地主階級と天皇制支配体制に対する労働者・農民の反抗であり,それを小ブルジョア層が支援した。米騒動はまたシベリア出兵に対する無言の批判であった。ほとんど沈黙を守る政友,憲政,国民の3党に代わって全国の新聞が言論の自由擁護と倒閣の論陣を張り,すでに元老の支持を失った寺内内閣は9月21日総辞職した。官僚支配では民心の安定は不可能とみた元老は政友会総裁原敬を首相に指名した。政党政治のかもしだす政治的自由の拡大のなかで,労働者・農民・水平社・婦人・学生・普選・社会主義運動などの社会運動が開花し,大正デモクラシーの最盛期を現出した。また米騒動は世界史的には翌年の朝鮮の三・一独立運動,中国の五・四運動と連動するロシア革命の波紋の一つをなし,世界資本主義の全般的危機に日本もあみこまれたことを示すものであった。
執筆者:松尾 尊兊
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米価の騰貴を契機とする民衆の暴動。近代日本では大規模なものが3回あった。
[江口圭一]
1889年(明治22)は凶作で、90年に入ると米価が暴騰し、1月18日富山市で貧民が救助を要求して騒動を起こしたのを最初として、4月から8月にかけ、鳥取市、新潟県下、下関市、高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。最大のものは佐渡相川の暴動(6月28日~7月5日)で、鉱夫ら約2000人が蜂起(ほうき)し、軍隊が出動した。その後、福井、愛媛、宮城などの各県下にも騒動が起こった。
[江口圭一]
1896年(明治29)は不作で、97年も風水害、虫害が各地にあり、9月ごろから米価が急騰し、9月から10月にかけ、長野県飯田町、富山市、山形県下、新潟県下などで貧民の騒動が続発した。
[江口圭一]
この年の米騒動は日本史上最大規模の民衆暴動であった。1917年(大正6)から18年にかけて米価が高騰したが、これは第一次世界大戦中のインフレの一環であるとともに、資本主義の急速な発展により都市人口が急増し、米の需要が増大したにもかかわらず、寄生地主制下の米の生産が停滞して供給不足に陥ったことが根本的原因であり、さらに地主、米商人が投機を計って売惜しみ、買占めをしたこと、寺内正毅(まさたけ)内閣が、地主、商人の利益のため外米輸入関税撤廃の措置をとらなかったこと、シベリア出兵の決定によりいっそう買占めが行われたこと、などの事情が加わった結果であった。1918年7月以降米価は異常に暴騰し、民衆の生活難と生活不安が深まり、ついに空前の大暴動が引き起こされた。騒動はおよそ4期に区分される。
[江口圭一]
1918年7月23日午前8時半ごろ、富山県下新川(しもにいかわ)郡魚津(うおづ)町で、米価が騰貴するのは米を他地方に移出するからであるとし、漁民の妻女ら46人が移出を阻止しようと海岸に集合したところを、警察に解散させられた。8月2日にかけ県下で類似の事件が2回起こったが、県外には知られなかった。
[江口圭一]
同年8月3日夜、同県中新川(なかにいかわ)郡西水橋(にしみずはし)町で、出稼ぎ漁民の妻女ら約300人が資産家、米屋へ押しかけ、米の移出禁止、廉売を嘆願し、警察に解散させられた。4日夜、同郡東水橋町で数百名の女性が町長、有力者、米屋に向かい、救済を請い、米の移出禁止を要求し、騒ぎは翌日に及んだ。5日夜、隣接の滑川(なめりかわ)町でも約300人の女性が資産家、米屋に救助を訴えたが、6日には男女混成の群衆が資産家宅へ押し寄せ、打ちこわしに及んだ。同様の動きは県下各所に広がったが、5日ないし6日付けの全国各紙に3日の西水橋町の事件が「越中(えっちゅう)女房一揆(いっき)」として報じられ、8日岡山県真庭(まにわ)郡落合町(現真庭市)での事件を最初として、騒動は富山県外に波及し、岡山県各地のほか、和歌山県、香川県、愛媛県などで騒動が続発した。
[江口圭一]
同年8月10日夜、名古屋、京都の両都市で大騒動が発生し、事態は新しい局面に入った。名古屋市では鶴舞(つるま)公園に1万5000~3万の群衆が集まり、演説が行われたのち、米屋町目ざして群衆が押し出し、警官隊と衝突した。騒動は11日、12日にいっそう激化し、ついに軍隊が出動して鎮圧した。京都市では10日夜、被差別部落民数百人が米屋に次々と押しかけ、米の安売りを認めさせたのを皮切りとして、11日夜には全市で安売り強要、打ちこわしが行われ、軍隊が出動、鎮圧にあたった。11日以降大阪市、神戸市でいっそう大規模な暴動が発生し、焼き打ち、略奪、乱闘が繰り広げられた。騒動は近畿、東海、中国、四国の各地に拡大し、13日には東京市で大騒動が起こり、関東各地、九州にも波及、13~14日ごろに絶頂に達した。
[江口圭一]
騒動は1918年8月中旬以降、都市部から農村部におもな舞台を移し、17日以降は山口県宇部炭鉱をはじめ、同県下および北九州の諸炭鉱に激烈な炭鉱暴動が相次いだ。そのほとんどに軍隊が出動して鎮圧にあたり、宇部では13人が射殺された。騒動は9月12日熊本県万田(まんだ)炭鉱の暴動を最後としていちおう終結した。
1918年の米騒動は約50日間に及び、青森、岩手、秋田、栃木、沖縄の5県を除く1道3府38県の38市153町177村、計368か所に大小の暴動、示威が発生した。参加人員は数百万人に達するものとみられる。政府は120地点に10万人以上に達する軍隊を出動させ、警察力と相まって騒動を鎮圧した。騒動はほとんどが夜間に自然発生した非組織的なもので、各個に鎮圧され、2万5000人以上が検挙され、8200人以上が検事処分に付された。しかし米騒動の衝撃を受けて寺内内閣は退陣を余儀なくされ、原敬(はらたかし)を首相とする政党内閣が出現した。また米騒動は日比谷焼打事件(1905)以来の一連の民衆暴動の最後のものとなり、民衆の権利意識の高まりのもとに、労働運動、農民運動、女性運動、学生運動、普選運動などの目的意識的、組織的な民衆運動が一斉に開花することとなった。
[江口圭一]
『井上清・渡部徹編『米騒動の研究』全5巻(1997・有斐閣)』▽『松尾尊兌著『国民の歴史21 民本主義の潮流』(1970・文英堂)』
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1918年(大正7)の騒動は,米不足とシベリア出兵にともなう投機で米価が急騰,青森・岩手・秋田・沖縄の各県を除く全国的騒動となった。富山県魚津町(現,魚津市)での騒動をきっかけに,米の移出阻止と廉売要求の行動が富山湾沿岸一帯に広がった。新聞で報道されるや,8月の京都・名古屋を皮切りに全国主要都市で一斉に騒動が展開。とくに関西以西では都市雑業層・労働者・被差別部落民が決起し,要求がいれられないと打ちこわしなどが行われた。軍隊が出動し,9月中旬までに死者約30人,検挙者は2万人を上回ったが,以降の労働農民運動を高揚させた。
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…なかでも長崎県下の高島炭鉱の暴動は有名で,1870‐78年に5回もの暴動が起きている。また1918年夏の米騒動では,吉岡銅山(岡山),宇部炭鉱(山口),亀田炭鉱(福岡),岩屋・杵島・相知炭鉱(佐賀),三池炭鉱(熊本)などで暴動が起きている。これらの争議・暴動の性格,原因は一様ではないが,あえて鉱山で多発した要因をあげれば,次のとおりである。…
…明治末年以後,そうした不正は,単に生産者・消費者の不利益となるだけでなく,安価な労働力によって国際市場に参入しようとしている日本資本主義そのものにとって弊害であり,近代的卸売市場制度の確立が急務であるという論議が盛んになる。とくに,1918年に発生した米騒動への対応策として,時の政府は,食料品価格の引下げ・安定化を図るために,食料品を中心とした小売店の集合施設である公設小売市場の建設を進めるとともに,小売市場への配給の円滑化と卸売価格引下げの目的をもって,中央卸売市場構想を打ち出す。それが,23年に〈中央卸売市場法〉として成立し,以後,27年の京都市に始まり,高知市(1930),横浜市,大阪市(ともに1931),神戸市(1932),東京府の築地,神田,江東の3市場,鹿児島市(ともに1935)と,各地に中央卸売市場が建設されていく。…
…また附和随行者は罰金ないし軽懲役に,さらに暴動の際殺人・放火をなした者は死刑に処せられた。本罪適用のおもなものには,1884年の群馬事件・秩父事件,90年の佐渡相川暴動(米騒動),1900年の足尾鉱毒被害民集団請願弾圧の川俣事件(足尾鉱毒兇徒聚衆事件ともいう),05年の日露講和条約反対の日比谷焼打事件,06年の東京市電値上反対事件,日露戦争後労働運動の頂点をなす07年の足尾鉱山暴動などがある。これらはすべて明治期の代表的な社会運動で,政治的無権利状態におかれた民衆が耐忍の緒を切って立ちあがり巨大なエネルギーを発揮したものが多い。…
…1人当り米消費量が148.5kgに達した1891‐95年期以降,今日の米過剰時代の開幕を告げる1965‐70年期まで,日本は米輸入国になるが,輸入国になってからも1人当り消費量は増えつづけ,1921‐25年期に170kgのピークに達する。片山潜が〈あきらかに日本における民衆運動の全般的覚醒の最初の力強い端緒であって,現代革命運動の火蓋をきったもの〉と評価した米騒動が起きたのが1918年である。それは1人当り米消費がピークにくる時期であり,そして国内産米の供給不足量がさらに大きくなっていく時期であった。…
…その後,23年に組織を変更し,商社の株式会社鈴木商店(資本金8000万円)と持株会社の合名会社鈴木商店(資本金5000万円)を分離し,財閥コンツェルンの形態が完成した。なお1918年の米騒動のときには,米の買占めをして米価をつり上げているといううわさがたち,神戸の本店が焼打ちにあった。この事件は城山三郎の小説《鼠》に詳しく描かれている。…
…北陸本線,富山地方鉄道,国道8号線,北陸自動車道が通じ,近年はしだいに富山市の衛星都市の性格を強め,金属製品,電気機器などの工場が増加している。なお,1918年に米価の騰貴に対して漁師町の主婦が反発し,魚津での同様の動きとともに,これが全国的な米騒動の発端となった。【藤森 勉】。…
…この間,第1次世界大戦による国際情勢の激変,世界各地における民族独立運動の勃興,ロシア革命による初の社会主義国の出現とその影響等々のなかで,〈部落改善運動〉の内部に社会運動としての性格が芽生えており,政府は,被差別部落の生活実態を放置しておくことが新たな〈社会不安〉の因となり,ひいては天皇制の国家体制そのものの存立基盤を根底から脅かしかねないことを深く憂慮された。その点がはっきりとしたのは,18年のシベリア出兵時に激発した〈米騒動〉と被差別部落との密接な関係による。〈米騒動〉の結果,起訴された民衆は8000余人にも及んだが,実にその1割強が被差別部落住民によって占められたことは,被差別部落の生活の窮状を明白に告げており,あらためて〈被差別部落対策〉の不可欠なことを政府・地方官庁関係者に強く認識させることとなった。…
※「米騒動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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