日本歴史地名大系 「長内村」の解説 長内村おさないむら 岩手県:久慈市長内村[現在地名]久慈市長内町・川崎町(かわさきちよう)・駅前(えきまえ)・本町(ほんちよう)・巽町(たつみちよう)・柏崎(かしわざき)・中(なか)の橋(はし)・表町(おもてちよう)・新町(しんちよう)門前(もんぜん)村・長久寺(ちようきゆうじ)村の南、長内川の下流および支流小屋畑(こやはた)川の流域に位置する。浜街道が通り、現在も平沢(ひらさわ)には一里塚が残る。昭和二四年(一九四九)久慈湾の南岸の海岸段丘面にある二子(ふたご)貝塚から二八・六センチの縄文晩期に属する遮光器形土偶がほぼ完全な形で出土した。永正五年(一五〇八)の糠部郡九箇部他馬焼印図(古今要覧稿)「具しの部」に「おさな井」とみえる。天正一九年(一五九一)の九戸政実の乱で九戸方となった諏訪新右衛門・二子喜左衛門・長内庄兵衛らは当村の地士であったと伝えられる(奥南旧指録)。 長内村おさないむら 秋田県:鹿角市長内村[現在地名]鹿角市八幡平(はちまんたい) 長内夜明島(よあけじま)川中流域に位置し、西は広い山地。南は白欠(しらかけ)村。石鳥谷(いしどりや)―長牛(なごうし)を貫く道が通り、黒沢(くろさわ)を過ぎて大葛(おおくぞ)(現北秋田郡比内(ひない)町)へ延びる山道もある。現浦田(うらた)に石鎗・石錐などを出土する縄文期の遺跡がある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。近世初期の「鹿角郡由来記」に「長内村 長内刑部領知 本名安保なり 館有」とあり、中世後期には開村していた。集落西側台地に中世館跡があり、数郭と空堀・腰郭などを残す。比高はおよそ三〇メートル、おっ館(たて)・のほ館(たて)・下女館(げじよだて)の地名が現存、南端の郭に館神八幡がある。 長内村ながうちむら 岡山県:英田郡美作町長内村[現在地名]美作町長内奥大谷(おくおおたに)村の南にある。村内を東流する谷(たに)川は則平(のりひら)村・稲穂(いなほ)村を経て吉野(よしの)川に注ぐ。正保郷帳に村名がみえ、田一一〇石・畑八三石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高五八石余・開高八石余、村位は中。津山藩森氏断絶後は幕府領、明和七年(一七七〇)大坂城代久世領、天明七年(一七八七)下総佐倉藩領、寛政六年(一七九四)播磨龍野藩預、文化四年(一八〇七)美濃岩村藩領、同一三年津山藩領、天保七年(一八三六)石見浜田藩領(美作略史・美作国郷村高辻帳)。 長内村ながうちむら 京都府:舞鶴市志楽地区長内村[現在地名]舞鶴市字長内岡安(おかやす)村のほぼ東、朝来(あせく)谷支谷の最奥に立地。白屋(しろや)村より移住した人々で形成された村という伝承がある。慶長検地郷村帳に「白屋村之内長内」と記され、白屋村に含まれていた。土目録では一村として扱われ、総高五〇石余、うち田方四四石余、畑方六石余。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚では農家戸数六。耕地のほか肥沃な山林を多く有し、杉・檜・竹材を産出した。 長内村なごうちむら 大分県:南海部郡宇目町長内村[現在地名]宇目町大平(おおひら) 大原(おおはる)大原村の南西に位置。江戸後期に大原村から分離したと思われる。寛政三年(一七九一)の組々免村継郡付庄屋村横目名面帳(三重町立図書館蔵)に村名がみえ、高二六石余、村位は下、免五ツ。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by