翻訳|Calvinism
宗教改革者カルバン(1509―1564)の神学から出発し、発展していったプロテスタントの思想。ルターに発する教会的伝統はルター派と総称されるが、カルバンの名を公に付する教会は実際問題として存在しない。しかしカルバンの宗教思想は広く深い伝統を形成することになった。第二世代の宗教改革者としてのカルバンは、第一世代のルターやツウィングリから多くを学び、基本的には「信仰のみ」「聖書のみ」の二大原理においては合致するが、なおカルビニズムの特色を求めようとする努力も理由がないわけではない。
多くの場合、カルバン神学の中心教義は何かという形で論じられる。カルバンのジュネーブにおける直接の後継者T・ベザ(ド・ベーズThéodore de Bèze。1519―1605)を含めて、これを予定論、すなわち、ある者は救いに、ある者は滅びに予定されているという主張にこれを求めることが少なくない。他方、カルバンの著述の多くが「ただ神にのみ栄光あれ」Soli Deo Gloriaという賛辞で終わることに暗示されるように、中心教義を「神の主権性」とみる立場も説得力があることになる。あるいは、ルターとの対比で、聖書本文に密着するカルバンの姿勢から、忠実な聖書主義を数えることも可能であり、さらには『旧約聖書』『新約聖書』の等しい位置づけから、それを一貫する神の契約という理念を中心に据えても誤りではないであろう。いずれにしても、前述の二大原理の具体的表出にほかならない。
カルビニズムは地理的伸張と時代の移行に応じて、強調点にもいくつかの相違がみられる。すでにベザとその周辺に始まるプロテスタント正統主義は、フランスのユグノー派やオランダの改革派へと波及してアルミニウス論争に至り、1618~1619年のドルドレヒト宗教会議でようやく決着をみた。
他方、ライン川沿いのファルツ(プファルツ)侯国の改革派教会では、「ハイデルベルク信仰問答」の執筆者オレビアヌスCaspar Olevian(1536―1587)およびウルジヌスZacharias Ursinus(1534―1583)らに始まって、カルバンのなかの契約思想に注目する傾向が、17世紀に入るとオランダのコッツェーユスにおいて契約神学Föderaltheologieとして開花、定着した。そこから生まれた「救済史」Heilsgeschichteの概念は、現代に至るまで広い支配的影響力をもっている。同じ17世紀のカルビニズムでも、アングロ・サクソンの地では新大陸を含めて、生活全体の聖化を目ざす清教徒主義(ピューリタニズムPuritanism)の形をとり、個人の生のみでなく国家・社会全体にまで広げられるとき、しばしば国家権力や社会の要求と対立し、激しい衝突を生み、清教徒(ピューリタン)革命にまで至る。
近代西欧世界の形成に深くかかわり、ついにはそのなかに埋没したかにみえたカルビニズムを救い出し、原初の姿に戻すことを企図したA・カイパーAbraham Kuyper(1837―1920)らの新カルビニズム運動は、今日のカルバン研究の隆盛を招く一因ともなった。またK・バルトらの弁証法神学も広くみればカルビニズム復興の努力といえるであろう。
[出村 彰 2018年1月19日]
『John T. McNeillThe History and Character of Calvinism (1954, Oxford University Press, New York)』
広義においてはカルバンの思想,あるいはカルバンの影響を受けた思想を意味し,したがって改革派教会の信仰と思想をさすが,しばしば狭義において17世紀に特にイギリスで厳格な〈預定論〉を奉じた神学思想をいう。すなわちアルミニウス主義の反対概念である。さらに19世紀末以後オランダのコイペルAbraham Kuyper(1837-1920)が首唱したネオ・カルビニズムはカルビニズムを世界観として政治と学問の全領域に適用しようとする。またK.バルトの思想も別の意味でネオ・カルビニズムと呼ばれることがある。一般にカルビニズムの名によって表される思想体系は,カルバンの思想そのものでなく,それのある面が強調される場合が多いが,神の主権を重視する特質は共通し,〈ただ神の栄光のために〉という標語が好まれる。カルビニズムは鋭利な論理と強い組織力および行動力をもって,16世紀にはフランスその他の国で人文主義系の福音主義改革思想,さらにルター主義にあきたりない人を吸収した。またルター主義が急進派の宗教改革を疎外したのと異なり,カルビニズムはこれを批判しつつ包容した場合が多い。このように拡張していくカルビニズムに対して迫害が加えられるとき,本来自立した思想であったカルビニズムはさらに強い政治的主張と行動を起こす。これがフランスにおけるベーズ,オトマンFrançois Hotman,モルネーPhilippe de Mornay,ランゲHubert Languet等の王制反対論を生んだ。スコットランドにおいてはブキャナンGeorge Buchananに同様の思想があるが,スコットランド宗教改革そのものが王権を制限する政治的行動でもあった。ネーデルラントではカルビニズム主導のもとに独立戦争が遂行され,17世紀イギリスのピューリタン革命もカルビニズムを思想的基礎として持った。アメリカ開拓のピルグリム・ファーザーズおよびアメリカ独立宣言の背景も共通している。これらの権利主張は自己自身に対する純潔と規律の厳格な要求と結びついており,抵抗の姿勢は良心および教会の規律の厳しさ(たとえば聖日厳守)と関連している。17世紀カルビニズムの神学が預定論を主軸として体系化されたのは必ずしもカルバンの考えに即したものではないが,思想的状況の中で預定論が先鋭化したのである。その代表的文書としては《ドルトレヒト規定》(1619)と《ウェストミンスター信仰告白・大小教理問答》(1646,47)がある。預定論が人々の心理に大きな緊張を生み,自分が選ばれているかどうかを確かめるために信仰と実践に精進せざるをえない状況を作り出し,こうしてカルビニズムが社会とのかかわりを持ったとする解釈があるが,社会に対する積極的態度は預定論よりも聖化論に基づく。また,カルビニズムの信奉者が勤勉と節約によって資本蓄積をしたことは事実であるが,資本主義とカルビニズムの内的関連はない。
→宗教改革 →プロテスタンティズム
執筆者:渡辺 信夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…そしてついに,内外の区別が消失し,一つとなった世界が個人を至上とする価値によって支配されるようになる。この到達点を象徴するのはカルビニズムの神学思想である。なぜなら,カルビニズムにおいては,この世外的な僧院での禁欲の価値は否定され,この世内の世俗的な営みへの没頭が,神の栄光を増すただ一つの方法である,とされるにいたったからである。…
…プロテスタントの主権者がその領域内の教会財産・修道院領を接収し,教会統治権を掌握する,このような国教会体制は,ドイツのほか,ルター主義を受け入れた北欧の諸王国においても実現された。
[カルビニズムの登場]
アウクスブルクの宗教和議とほぼ同じころ,スイスのジュネーブでは,カルバンによる宗教改革が最終的に勝利していた。人文主義者として出発し,ルフェーブル・デタープルらの福音的ヒューマニズムの影響下に信仰を形成したカルバンは,1530年代に本格化したフランス王権による福音主義への弾圧を前にスイスへ亡命し,《キリスト教綱要》(1536)いらいプロテスタンティズムの第2世代を指導する地位へと押し上げられた。…
… プロテスタンティズムは西洋近代の成立と発展とに歩みを同じくしているので,近代世界と深い関係をもったことは当然である。近代資本主義成立にかかわるプロテスタンティズムとくにカルビニズムないしピューリタニズムの倫理の役割を強調したM.ウェーバーの《プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神》は有名である。また神の前に立つ良心的人格の確立は,近代の個人主義的傾向に大きな影響を及ぼしている。…
※「カルビニズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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