日本歴史地名大系 「関ヶ原古戦場跡」の解説
関ヶ原古戦場跡
せきがはらこせんじようあと
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった。この天下分け目の戦いの跡を伝える九ヵ所、二四・五ヘクタールは国指定史跡で、それぞれ開戦地などと彫込まれた記念碑が建つ。
慶長三年豊臣秀吉が病没し、遺児秀頼に代わって五大老・五奉行による政務を執る体制となったが、翌四年前田利家の死によってこの体制の均衡が崩れた。家康は同年九月末には大坂城西の丸に入り、五大老の権限をほとんど一人で占めるに至って、三成らとの緊張は強まった。翌五年五月、上洛を拒絶する上杉景勝に対し会津攻めの動員を決定、これが三成の挙兵を促すことになった。七月一七日西軍は家康への弾劾状を発し、これに応じて毛利秀包・吉川広家・小早川秀秋・宇喜多秀家・長宗我部盛親・小西行長・島津義弘・鍋島勝茂ら総勢九万三千人余が大坂に参集。八月一日伏見を落した三成は同九日
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報