関谷村(読み)せきやむら

日本歴史地名大系 「関谷村」の解説

関谷村
せきやむら

[現在地名]塩原町関谷

下田野しもたの村の北、ほうき川左岸に位置し、北西部は山地が広がる。塩原街道が南から西に抜け、宿場を形成した。関屋とも記した。古くより会津と那須を結ぶ交通の要地であった塩原を扼す位置にあった。「那須記」には治承四年(一一八〇)挙兵した源頼政伴類探しの平清盛の命を受けた那須資隆は、塩原八郎を攻めるべく関屋口より押寄せた話を収める。鎌倉末期、田野館にあった関谷太郎兼光は、塩谷氏に重用されて大網おおあみの関守を勤めたと伝え、地名もこれにちなむという。近世は大田原藩領。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「しほのや分」として「せきや」一八四石余がある(年不詳「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)


関谷村
せきやむら

[現在地名]尾花沢市富山とみやま

矢越やごし村の北西、丹生にゆう川支流赤井あかい川上流に位置し、山刀伐なたぎり峠に至る街道に沿って発達、同街道の口留番所が置かれた。北は市野々いちのの村。新田本村鑑によれば最上氏時代は当村まで小国おぐに(現最上郡最上町)に居を構える最上氏家臣小国日向守の領地であったという。最上氏改易後の元和八年(一六二二)山形藩領、寛永二〇年(一六四三)幕府領となり、安政二年(一八五五)からは松前藩預地。寛永一三年の保科氏領知目録に村名がみえ、高三六三石余。正保郷帳では田方三三三石余・畑方三〇石余。


関谷村
せきやむら

[現在地名]福島市松川町関谷まつかわまちせきや

あさ川の上流に位置し、西は上水原かみみずはら村、南は八丁目はつちようめ村、東は浅川あさがわ村。水原川の北側を東に延びる山地にあたり、西端に物見ものみ峠がある。関屋とも記された。信夫しのぶ谷七たにしち郷の一で(「信達両郡案内記」福島市史)、同郷は当村のほか水原村・八丁目村・金沢かねざわ村・浅川村清水町しみずまち村・浅川新町あさがわしんまち村で構成。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に関屋とみえ、高一二九石余。近世初期の邑鑑によると免四ツ、家数一二(役家三・肝煎一・脇家八)、人数三一、役木として桑少しと楮がある。米沢藩領時代の古高五九八石余、幕府検地による新高四四五石余(古高新高帳)。領主は八丁目村と同じ変遷をたどったが、明和元年(一七六四)以降は幕府領として幕末に至る。


関谷村
せきやむら

[現在地名]鎌倉市関谷・玉縄たまなわ二丁目・同五丁目

玉縄城跡の西北方に位置し、北は小雀こすずめ(現横浜市戸塚区)、東・南は城廻しろめぐり村、南は柄沢からさわ(現藤沢市)に接する。正保国絵図には関屋とある。皇国地誌によると、もと付近の村々とともに玉縄村と称していたが、元禄年間(一六八八―一七〇四)に分村したという。

近世は初め幕府直轄領、次いで玉縄藩領、その後旗本領の二給。


関谷村
せきやつむら

[現在地名]勝浦市関谷

勝浦村の北方、夷隅いすみ川上流域に位置する。元禄郷帳新官しんかん郷枝郷の頭注つきで村名がみえ、高一七五石。天和二年(一六八二)からは勝浦藩領で、以降の変遷は勝浦村に同じであったとみられる。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一八九石余、家数二六。文政一〇年(一八二七)の岩槻藩領村々書上帳では田九町八反余・畑一町九反余、ただし溜井敷・荒地引八反余があり、年貢米四七石余・永一貫四一九文余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android