浅川村(読み)あさかわむら

日本歴史地名大系 「浅川村」の解説

浅川村
あさかわむら

[現在地名]海南町浅川

浅川浦の北に広がる村域で、伊勢田いせだ川が流れる。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「あさ川」とあるが、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「浦上村」「大田井村」「いせた村」「さはせ村」が記されており、これらが浅川村に相当すると考えられる。寛永一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図では「太田村」の辺りに朱による道(土佐街道)が記される。正保国絵図に記す浅川のうち伊瀬田村・新川にいかわ村・大田おおた村などが浅川村内に相当するのであろう。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高六一四石余。「阿波志」によれば、土田は陸田一六町二反余・水田六三町八反余、高七八七石余、家数一二八・人数三八三。文化元年(一八〇四)の名負林検地帳(海南町史)では二一筆で、七町二反余・床銀四一九匁余・定請銀一四〇匁余。文化一〇年の高都帳では高七八二石余。


浅川村
あさかわむら

[現在地名]八幡西区浅川・浅川一―二丁目・浅川学園台あさかわがくえんだい一―四丁目・浅川台あさかわだい一―三丁目・浅川日の峯あさかわひのみね一―四丁目・浅川町がしら一―二丁目・自由じゆうおか日吉台ひよしだい一―三丁目・藤原ふじわら一―四丁目・医生いせいおか大浦おおうら一―三丁目・千代ちよさき一―二丁目

本城ほんじよう村の南西に位置し、西は猪熊いのくま(現水巻町)、北は高須たかす(現若松区)、南東は折尾おりお村。集落として「続風土記拾遺」は本村および三頭みつがしら(三ッ頭)長谷ながたに(永谷)の三所をあげ、「地理全誌」はこれに隠田かくれた龍谷りゆうがたに唐戸からとを加える。北流してきたまがり川は村の北東端部、高須村境の三頭で川に注ぎ、曲川を入れた江川はさらに西に流れて、高須村、山鹿やまが村・芦屋あしや(現芦屋町)境付近で遠賀おんが川に注いでいた。


浅川村
あさかわむら

[現在地名]浅川町浅川

浅河とも記す。現浅川町の中西部に位置し、北は大田輪おおたわ村から東流するやしろ川に限られ、当村北東で同川は流れを北に変える。対岸は滝輪たきわ村、東は畑田はただ村、南は大畑おおはた村・袖山そでやま村、西は簑輪みのわ村など。「石川郡誌」に「浅川ノ里ハ古昔琵琶ノ里ト称」したとある。かつて社川に巨大な石があったため川が氾濫し、当地付近に琵琶の形に似た湖が形成されたが、康平年間(一〇五八―六五)にこの石を割って浅い川としたため浅川の名が生れたという。中世には東部のしろ(四〇七メートル)に浅川氏の居城浅川城があった。近世中頃に越後高田藩および幕府の浅川陣屋が置かれ、付近は町場化して浅川町とも称されている。

浅川城は青葉山あおばやま城などとも称され、康平年間に石川氏の一族浅川次郎左衛門が築城、これを居城としたと伝える。文治五年(一一八九)甲斐源氏浅利氏を出自とする知義が浅川の地頭職を与えられ、浅川城主として一万九千石を領し、以後浅川氏を称したという(「浅川家系譜」浅川史)


浅川村
あさかわむら

[現在地名]大月市七保町浅川ななほまちあさかわ

駒宮こまみや村の南東、葛野かずの川支流浅川の流域に位置する。権現ごんげん山・おうぎ山・百蔵ももくら山などの標高一〇〇〇メートル級の山山に囲まれた渓谷の村で、南西は葛野村。同じ都留つる郡内にもう一つの浅川村(「あざがわ」とよみ、現河口湖町)があるため、下浅川村ともいった。古くは葛野村と一村を形成していたが、寛文九年(一六六九)の検地の時に二村に分れたという(甲斐国志)。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控では葛野村(勝野村)の高に含まれていたと思われる。


浅川村
あさかわむら

[現在地名]高根町浅川

八ヶ岳の南東麓、標高一〇〇〇メートル付近に位置。東と南は上津金かみつがね(現須玉町)、西は長沢ながさわ村、北は樫山かしやま村。大門だいもん川を深沢ふかさわ川とよぶのに対する村名で、中世に栄えたという念場ねんば千軒が分散移転したとする伝承もある(甲斐国志)。天正一〇年(一五八二)一二月一一日には武田家旧臣の津金衆小尾監物祐光へ「浅川之郷」四貫五〇〇文が安堵されている(「徳川家印判状写」譜牒余録)

慶長七年(一六〇二)の樫山之内浅川村検地帳(県立図書館蔵)では下田八反余・下々田八反余、中畑五反余・下畑八反余・下々畑七町八反余・山畑一三町六反余、屋敷数一〇。


浅川村
あさがわむら

[現在地名]福島市松川町まつかわまち浅川あさかわひかりおか蓬莱町ほうらいちよう

関谷せきや村の東に位置。浅川が東流し、南の金沢かねざわ村との境界を経て阿武隈川に合流する。慶長九年(一六〇四)浅川新町あさがわしんまち村を分村した(福島市史)。天文七年(一五三八)の段銭古帳では「御はんの所」として「あさ川」とみえ、段銭は一四貫一〇〇文。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高八一四石余。


浅川村
あさかわむら

[現在地名]米沢市浅川

新田にいだ村に南西および西北を囲まれ、まつ川と天王てんのう川に挟まれた平地に立地。浅河とも書く。地内に独立丘陵の戸塚とづか(三五六・六メートル)があり、戸塚山とづかやま古墳群が、また戸塚山に連なる北東台地に上浅川遺跡がある。戦国時代には屋代やしろ庄のうち浅川郷。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば、屋代庄「あさ川」から四貫八五〇文を納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、浅川のうちで星源四郎が横尾四郎より買地の「わこのさひけ」一軒を安堵され、横尾四郎が宮代知行分を与えられている。


浅川村
あざがわむら

[現在地名]河口湖浅川あさがわ

河口湖の東岸にある。北は産屋うぶやヶ崎を境として川口かわぐち村、東は三ッ峠みつとうげ山の尾根筋にあるうそぶき山を境として新倉あらくら(現富士吉田市)。川口村から入った鎌倉街道が南の船津ふなつ村に抜ける。慶長古高帳には記載がなく、「甲斐国志」によれば川口村の枝郷であったが、寛文九年(一六六九)の検地のとき分村したと記される。同年の検地帳(外川三朗家文書)に村名がみえ高四一石余。同郡の下郷に浅川あさかわ(現大月市)があるため「あざがわ」と読み、また上浅川と記した文書も多い。


浅川村
あさかわむら

[現在地名]岡山市浅川

寺山てらやま村の西、妙見みようけん山の南に位置し、北域を山陽道が通る。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)福岡ふくおか庄に村名があり、寛永備前国絵図では高四七七石余。「備陽記」によると田畠二三町七反余、家数四三・人数二四三。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高九〇〇石余、蔵入と家臣六人の給地。田高三二四石余・一六町六反余、畑高一九三石余・一一町三反余、家数三七・人数一五九、牛一五、社方一軒(人数四)、給人藪七、請藪五(請銀四匁余)、樋四、橋三。


浅川村
あさがわむら

[現在地名]大子町浅川

久慈川の上流西側に位置し、おし川の支谷浅川流域にある。北は槙野地まぎのち村。旦那職之事(吉成勤氏蔵)に「浅河之村之旦那職(ママ)相候為心得之一筆進候以上 慶長仁年 五月十四日光義(花押) 真弓別当」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「浅川村」とみえる。


浅川村
あさがわむら

[現在地名]松橋町浅川

東は新田出しんでんで(現小川町)、南は砂川すながわ村、北は南豊崎みなみとよざき村と御船みふね村に接し、西は八代海に面する。嘉永五年(一八五二)砂川新地の一部として干拓によってできた村。明治初年の「郡村誌」によると田三八町四反二畝余・畑五四町八反七畝余・宅地七町七畝余、戸数七七、男二三一・女二三七、馬五一とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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