勝浦村(読み)かつうらむら

日本歴史地名大系 「勝浦村」の解説

勝浦村
かつうらむら

[現在地名]琴南町勝浦

土器どき川の源流域に位置し、本流である勝浦川の流域に野田小屋のだごや仲野なかの勝浦本村かつうらほんむら下福家しもぶけ真鈴ますず八峯はちみね家六けろくゆずりは茂地倉もじくらの各集落が、明神みようじんで勝浦川に合流する明神川左岸に長谷はぜ吹佐古ふきさこ谷田たにた奈良の木ならのき三角みかど横畑よこばたの各集落が点在する。各集落は地形的に孤立し、集落ごとに氏神を祀る。勝浦の地名は、文治(一一八五―九〇)頃に源義経の家来勝浦権右衛門が土着して開拓したのによるという(長善寺縁起)。横畑は藩政初期までは横旗と書き(寛永三年三条神社棟札)、平家の落武者が軍旗を横に倒してこの地を開拓したと伝える。野田小屋も落人伝説のある集落で、大木元家に菊花と桐を織出した軍旗一旒が保存されている。各集落の神社の棟札調によると、近世初頭以後に開拓された集落が多い。

寛永国絵図には勝浦・下福家・八岑がみえ、中通なかとお郷に属する。寛永一一年(一六三四)の村高は八一石余、家数七一・人数一七六(「西村市太夫後見記録」西村文書)


勝浦村
かつうらむら

[現在地名]勝浦市勝浦

現勝浦市の南東部、勝浦湾の東手に位置し、西は浜勝浦はまかつうら村、北西は串浜くしはま村など、東は川津かわづ村などと接する。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通り、串浜村方面へは汀沿いの道で往来したようである(観海漫録)大多喜おおたき城下(現大多喜町)への大多喜往還が当地で分岐し、馬継場であった。江戸時代を通じて幕府に提出した郷帳類では浜勝浦村を含め勝浦村として一括されているが、実質は元禄(一六八八―一七〇四)頃に勝浦町と称していた地域が勝浦村、浜方が浜勝浦村として分離したという(天保七年「浜勝浦村書上帳」久我家文書)。天正一八年(一五九〇)勝浦で三千石を与えられた植村泰忠は、翌一九年(慶長八年とも)と推定される二月三〇日、勝浦根小屋市に市立てを行い、その保護策をとっている(「植村泰忠定書」覚翁寺文書)。この根小屋市場を中心に町並が形成され、勝浦町とも称されるようになった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に勝浦村とみえ、高一六一石。


勝浦村
かつうらむら

[現在地名]酒田市飛島とびしま 勝浦

飛島の南東に位置し、海岸沿いに南北に連なる。かつら村とも称した。縄文時代の柏木山かしわぎやま遺跡・蕨山わらびやま遺跡・葡萄崎ぶどうざき遺跡がある。飛島の南端で東に突き出た絶壁のたて岩上部に館岩たていわ館跡がある。東西一八〇メートル、南北一六〇メートル、最高位四〇メートルの岩塊で、現在は陸繋島。昭和三年(一九二八)と四六年に測量調査が行われている。頂上部に階段上に三段の平坦面があり、周辺に高さ約一メートルの石塁を積んで築造している。時期は不明であり、北方アジア大陸の築城・朝鮮式山城・神籠石などと比較されたりしている。

漁業を生業とし、農業は大豆・麦などの畑作、寄港地のため問屋や船宿もあった。寛文二年(一六六二)の年貢割付状(酒井家文書)によると年貢いか一九駄、家数三七・人数九八、田九間二分余・畠二千二四一間余。天和三年(一六八三)の飛島村数並家数人数書上(鶏肋編)では家数五三、うち真言宗寺院一、人数二七五、猟船八〇艘。


勝浦村
かつうらむら

[現在地名]津屋崎町勝浦

わたり半島東部から北北東に延びる白砂の海岸線に沿った村で、玄界灘に西面する。南は津屋崎村。「続風土記」によると枝村は北の勝浦浜村のほか山添やまぞえ村・塩江村松原口まつばらぐち村がある。元禄国絵図から推定すると、山添村は当村中央部の東側、松原口村は同じくその西側、塩江村は当村の南部と思われる。天保郷帳では松原口村が枝郷として高付されている。勝浦は古くから史料にみえる地名で、「かつら」ともよばれた(「地理全誌」など)。小早川時代の指出前之帳では勝浦村の田五二町五反余(分米五九〇石余)・畠二九町二反余(分大豆二四三石余)


勝浦村
かつうらむら

[現在地名]那智勝浦町勝浦・築地つきじ北浜きたはま

那智湾を形成する南側半島状の地にある漁村。東端に小名大勝浦おおかつうらがあり、この地から南に細長く半島が延び、村の南側にも内海を形成、近海には多くの小島が点在する。この南に延びた半島の先端部に狼煙場があり、内海に沿った地に去来潟いさかたはま和田わだうらなどの小名があった(続風土記)。村名は「出崎細長く海面に出る、葛の蔓の如くなるを以て加都良宇良といひしか、いつしか約まりて迦都良となり文字も勝浦と書来れるなるへし」という(同書)

正安二年(一三〇〇)三月三日の引旦那注文案(米良文書)端裏書に「カツラノヲイトノ分」とあり、元徳二年(一三三〇)一一月一一日付の旦那譲状(同文書)に「葛浦左衛門入道分」と地名を負った御師の名がみえる。


勝浦村
かつちゆらむら

[現在地名]瀬戸内町勝浦かちうら

阿木名あくうにや村の東に位置し、集落は入江に臨む。ひぎや間切東方のうちで、カッチュラのほかカチュウラともいう。「大島私考」に東方一二ヵ村のうちとして「勝浦村」とみえ、高九五石余、うち享保内検後の開地は五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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