雲南問題(読み)うんなんもんだい

改訂新版 世界大百科事典 「雲南問題」の意味・わかりやすい解説

雲南問題 (うんなんもんだい)

雲南の地下資源および雲南経由の通商路の開拓を企図した英仏と中国との抗争。インド政府は,1868年の第1回雲南調査に次いで74年にはブラウンH.Browne大佐が率いる探検隊をビルマ(現,ミャンマー)経由で派遣した。北京のイギリス公使館は通訳にマーガリーA.Margaryを送るが,彼は75年(光緒1)2月21日に雲南・ビルマ国境付近で武装した中国人に殺害された。いわゆるマーガリー事件である。イギリス公使トマス・ウェードは,この事件を機に中国・イギリス間の懸案を解決せんとし,芝罘(チーフー)で李鴻章と交渉を始め,76年芝罘協定が結ばれた。内容は(1)雲南事件の謝罪および償金支払い,雲南・ビルマ間国境貿易の許可,(2)会審の具体的手続に関する取決め,(3)宜昌,蕪湖,温州,北海開港,イギリス官吏の重慶駐在,租界における洋貨の釐金(りきん)免除アヘンに対する保税制度の適用などについて取り決められた。また特別条項では,イギリスが77年に北京からインドに探検隊を出す際に,中国政府はその安全を保障することが規定された。中国政府は芝罘協定をただちに批准したが,イギリス政府は,インド政府および商人からの反対にあい,85年に至って批准した。一方フランスも1866年からメコン川経由で雲南に至る通商路の調査を始め,その後仏商ジャン・デュピュイはソンコイ川経由で武器や塩を雲南に運んだ。74年サイゴン条約でフランスがベトナムを保護領化すると,ベトナムに対する宗主権を主張する清朝はこれに反発し,84年の清仏戦争に至った。清朝軍と劉永福の黒旗軍はベトナム北部に進軍するが,後に戦線は拡大し,フランス軍はソンタイ,基隆(キールン),馬江で清軍を破り,85年パトノートル公使と李鴻章は天津条約を結んだ。内容は雲南,広西,広東における国境陸路貿易を規定し,また中国が鉄道を敷設するときはフランスの業者に相談することとされ,後の雲南鉄道建設の布石となった。イギリスはフランスに対抗し,国境未画定を口実にしばしば雲南進出を企てた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雲南問題」の意味・わかりやすい解説

雲南問題
うんなんもんだい
Yun-nan; Yün-nan

19世紀末から 20世紀にかけて起きた,中国雲南省とビルマとの国境をめぐるイギリスと清朝との外交問題。ビルマを領有したイギリスは,雲南省から貴州省,四川省を経て,揚子江流域の自己の勢力圏と連絡しようとして,光緒1 (1875) 年のマーガリー事件以後も,中国側地域のビルマ帰属を主張し,一部地域を占領するなどした (片馬事件) 。フランスもインドシナから雲南へ進出し,中国人の民族意識を大いに刺激した。

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