日本大百科全書(ニッポニカ) 「韓天寿」の意味・わかりやすい解説
韓天寿
かんてんじゅ
(1727―1795)
江戸中期の書家、画家、篆刻(てんこく)家。通称は中川長四郎、伊勢(いせ)(三重県)松阪の人。名を天寿(てんじゅ)(「たかかず」とも)といい、自ら韓国余璋王の子孫と称して韓氏を名のった。江戸に出て、まず松下烏石(うせき)に文徴明(ぶんちょうめい)の書法を、ついで沢田東江(とうこう)の指導を受けて、王羲之(おうぎし)・王献之(おうけんし)父子の書法研究に没頭、しだいにその名を広めていった。晋(しん)代の羲之に心酔したことから、酔晋斎(すいしんさい)と号した。池大雅(いけのたいが)、高芙蓉(こうふよう)と交遊、ともに富士山、立山、白山に登り、三岳道者とも号する。一方、南画(とくに水墨画)、篆刻にも秀で、広く風雅の道に通じた。とりわけ、双鈎(そうこう)(模写)に巧みで、自ら収集した数多くの古法帖(ほうじょう)の模刻にいそしんだ。その法帖は『酔晋斎法帖』とよばれる。墓所は三重県松阪市の清光寺にある。
[神崎充晴]