韮山城跡(読み)にらやまじようあと

日本歴史地名大系 「韮山城跡」の解説

韮山城跡
にらやまじようあと

[現在地名]韮山町韮山韮山

田方平野の中央、平山ひらやまに位置し、狩野かの川の自然堤防・後背湿地が周辺にあり、自然の要害であった。堀越ほりごえ御所の武将外山豊前守の居城とする伝承もある。本来、天守平山中央のてんヶ岳にあったとみられる。現在の本丸・二の丸・三の丸が集合した形態は、天正一八年(一五九〇)直前か、その後城主となった内藤信成による改築とみられる。障子堀など北条氏独自の構造をよく残すが、慶長六年(一六〇一)廃城となって以後江川氏が平山一帯を占有し(御囲地)、保全したことによる。現存する武田善政が表した韮山古城図(江川文庫蔵)は寛政五年(一七九三)とかなり後年のもので、本来は堀がさらに多重で現韮山町役場付近も外堀であった。

永正元年(一五〇四)九月、北条早雲・今川氏親軍が扇谷上杉氏加勢のため武蔵国に出陣し勝利したが、氏親は駿河国への帰路「韮山」に二、三日逗留した(宗長日記)。「今川家譜」はこのとき氏親は「韮山ノ城」で休息したと記す。これ以降、史料上の韮山はほとんど韮山城のことをさしているとみられる。築城の時期は明応七年(一四九八)足利茶々丸を破った早雲が、茶々丸の居館堀越御所が軍事的拠点にふさわしくないとみて、近くの山に築城したとされる(静岡県史)。天文一九年(一五五〇)四月一日北条氏は伊豆国牧之郷まきのごう(現修善寺町)西浦長浜にしうらながはま(現沼津市)の百姓中に「韮山之城米銭」を出すことを命じている(「北条家朱印状」牧之郷三須文書・長浜大川文書)。城の改築や拡張工事を繰返し堅固な城郭として完成していく。伊豆衆の大谷氏は長年韮山城普請等にかかわった功により、中条ちゆうじよう等における八〇貫文の役高を免除されており(北条氏所領役帳)、永禄一一年(一五六八)六月一七日には韮山城の鍛冶屋の管理を命じられた(「北条氏康朱印状」浜村文書)。同一二年と推定される一一月二四日の北条氏康書状(山吉文書)に子氏規が韮山へ移ったことがみえ、元亀元年(一五七〇)八月武田信玄の攻撃を受けた韮山城には氏規・氏忠兄弟以下三千人が立籠っていた(八月一二日「山角康定書状」尊経閣古文書纂)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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