室町後期の武将。堀越公方(ほりこしくぼう)足利政知(まさとも)の子。1491年(延徳3)4月に父政知が病没すると、同年7月異母弟の潤童子(じゅんどうじ)とその母円満院(えんまいん)(武者小路隆光(むしゃこうじたかみつ)の娘)を襲って殺害し、家督を奪った。しかし近臣の讒言(ざんげん)を信じて老臣を殺したりしたため、旧臣は心服せず、伊豆国内は混乱状態に陥った。この機に乗じて駿河(するが)国興国寺(こうこくじ)城主の伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲(そううん))が堀越御所(ごしょ)を攻めたため、茶々丸は願成就院(がんじょうじゅいん)に逃れて自害した。寺伝では同年10月11日が忌日という。法名は成就院福山広徳。
[田代 脩]
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
?~1498.8.-
堀越公方(ほりごえくぼう)政知の子。1491年(延徳3)4月,父の病死で家督を継ぐ。同7月に異母弟潤童子とその母円満院を殺害,さらに重臣を誅殺するなどで家臣の離反を招いた。そのため93年(明応2)北条早雲の伊豆侵攻をうけ,堀越公方府は滅亡。その後は武蔵・甲斐などを流浪し,98年8月,早雲によって自害に追いこまれた。
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…〈ほりこしくぼう〉が慣用読みであるが,地名は〈ほりごえ〉である。堀越御所ともいう。関東は鎌倉公方足利成氏が1454年(享徳3)に関東管領上杉憲忠を謀殺したことで内乱に突入し,成氏自身は下総古河(こが)に御座を構え古河公方と尊称されるようになった。上杉氏は,成氏勢力に対抗するために幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めた。そこで,幕府は将軍義政の弟足利政知を東下せしめたが,鎌倉に入ることができず,伊豆の堀越に御所を構えた。…
※「足利茶々丸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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