柏崎村(読み)かしわざきむら

日本歴史地名大系 「柏崎村」の解説

柏崎村
かしわざきむら

[現在地名]八戸市柏崎四丁目・城下しろした一―四丁目、柏崎一丁目の大半、同二―三丁目・内丸うちまる一丁目・同三丁目の各一部

八戸城下の北東に隣接し、八戸村の北東部をなす。東は小中野こなかの村、北は沼館ぬまだて村、東南は類家るいけ村に接し、北西を馬淵まべち川が流れる。

藩政初期は盛岡藩に属し、雑書の寛文元年(一六六一)四月四日条に「川井運助御代官所柏崎村四ツ屋信太郎・同助二郎此二人命におよび候に付て御米拝借仕度由」とある。同四年の八戸藩創設とともに同藩領に編入され、八戸藩日記の同八年二月一七日条に「柏崎村肝煎」とみえる。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では八戸通はちのへどおり村のうちとして村名がみえ、高は四三二・二九七石、うち田四〇九・三三二石である。八戸通村の本村にあたろう。同三年の家数は一〇(「御領内巡見帳」小中野風土記)。八戸藩日記の享保一〇年(一七二五)一一月一六日条に八戸廻検地村高目録として今高三五六・五二九石、南宗なんしゆう知行地本高二六・六六七石、今高二六・四三七石、入高〇・二三石とある。


柏崎村
かしわざきむら

[現在地名]出島村柏崎

菱木ひしき川左岸、北は霞ヶ浦に面し、西は安食あんじき村・下軽部しもかるべ村、南は岩坪いわつぼ村。応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)に「かしわさきの津小田兵部少輔入道知行分」とあり、中世は小田氏一族の支配下にあったが、天正期(一五七三―九二)に佐竹氏の支配下に入る。のち一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「かしは崎」とある。


柏崎村
かしわざきむら

[現在地名]相馬市柏崎

北を宇多うだ川の旧流とみられるうめ川、南を日下石につけし川に挟まれた平坦地に位置し、北東は松川まつかわ浦に臨み、北は新田にいだ村・程田ほどた村。「伊達政宗記録事蹟考記」に載る黒木主計書写に、天正一六年(一五八八)九月二四日に死去した藤田晴近(黒木城代の黒木胤乗の養子宗元の父)の墓が「宇田郡柏崎常林寺」にあると記されるが、「奥相志」にみえる字中台なかだいの圃中にある晴近の墓碑と伝える古碑がこれに相当するか。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「三十五貫五百七拾文 柏崎」とあり、当地に住んだ幕内小一郎は七貫三六八文の采地を有していた。


柏崎村
かしわざきむら

[現在地名]東松山市柏崎・若松町わかまつちよう一―二丁目など

松山町の南東、東松山台地の突出部にあり、同台地の下、村の南東方を市野いちの川が流れる。松山領に属した(風土記稿)。当地から南東の古氷ふるこおり村にかけては古墳時代や古代の遺跡が多い。小田原衆所領役帳では江戸衆の豹徳軒の所領のうちに「比企郡古郡柏崎共」七二貫文とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われている。田園簿によると田高五一三石余・畑高三三八石余、旗本渡辺領。


柏崎村
かしわざきむら

[現在地名]唐津市柏崎

宇木うき川の左岸、背振せふり山地の丘陵の一つ夕日ゆうひ山を背にした山麓の村落。

古代の松浦潟の海岸線にあたり、「肥前風土記」は鏡渡かがみのわたりを「在郡北」、褶振峯ひれふりのみねを「在郡東」と記すので、松浦郡衙を現在の柏崎周辺に比定する説が有力である。周辺には、柏崎貝塚をはじめ弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が多く、田島たじま貝塚・長崎山ながさきやま甕棺群遺跡・外園ほかぞの住居跡・外園古墳(市指定史跡)割石わりいし遺跡などが確認されている。

村名は正保絵図にみえ、文化年中記録に畝数三一町六段五畝六歩半とある。


柏崎村
かしわざきむら

[現在地名]岩槻市柏崎・原町はらまち城南じようなん一丁目

加倉かくら村の南、谷下やした村の東に位置する。当地は野与党柏崎氏の本領(名字の地)とされる。柏崎氏は野与党箕勾二郎為経の弟時光の代から名乗っている(「野与党系図」諸家系図纂)。宝暦六年(一七五六)まで岩槻藩領、以後は幕府領。田園簿に村名がみえ、高は田方一七九石余・畑方三〇四石余。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数二三(本百姓一三、分ケ地・水呑一〇)、人数一五五、岩槻藩の地方支配は新方にいがた筋に所属。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高四八六石余、ほかに新田高一石余、小物成は野銭永二五四文、見取場畑一町二反余。


柏崎村
かしわざきむら

[現在地名]古川市柏崎

北に丘陵地帯をひかえ、南東一帯は大崎おおさき平野が広がる。北は玉造たまつくり南沢みなみざわ(現岩出山町)、南は新堀にいぼり村、東は保柳ほやなぎ村、多田ただ対岸耳取みみとり村、西は加美かみ上狼塚かみおいぬつか(現中新田町)に接し、志田郡・加美郡玉造郡の接点にあたる。中世には大崎氏の居城であった名生みよう館の西南約二キロにあり、正保郷帳に田五九貫六六四文・畑九貫五五〇文とあり、ほかに同所新田九貫一八五文がある。


柏崎村
かしわざきむら

[現在地名]遠野市土渕町柏崎つちぶちちようかしわざき

須崎すざき村の南東にあり、南は飯豊いいどよ村。建武元年(一三三四)八月日の中尊寺大衆訴状案(中尊寺文書)に、平泉毛越もうつう寺の仏餉灯油料所としてみえる「柏崎七箇村」は当村およびその一帯とも考えられる。中央部に天正年中(一五七三―九二)山口修理が居館したという柏崎館跡がある(上閉伊郡志)。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、柏崎村の高六八石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の柏崎村の言及

【紀勢[町]】より

…三重県南部,度会(わたらい)郡の町。1957年錦町と柏崎村が合体,改称。人口4811(1995)。…

※「柏崎村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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