日本大百科全書(ニッポニカ) 「堺商人」の意味・わかりやすい解説
堺商人
さかいしょうにん
中世、ことに室町時代から近世にかけて堺(大阪府堺市)を中心に活動した商人。摂津(せっつ)と和泉(いずみ)の国境に発達した堺周辺の漁業集落は、彼らの信仰する開口(あくち)神社が住吉(すみよし)社の別宮であったところから、古くより住吉社と深い関係を有し、魚貝類の販売に従事していた。これら魚商人には、南北朝内乱期に南朝方に通じている疑いがあるとして北朝方より売買を一時停止させられたこともあった。同じ南北朝期に堺北庄(きたしょう)住人のなかには荏胡麻(えごま)売買に従事していた者がおり、大山崎油座神人(じにん)の訴えにより商売を停止させられている。
また、鎌倉初期より堺津を拠点として廻船(かいせん)で諸国に赴いて鉄製品その他の交易を行った蔵人所供御人(くろうどどころくごにん)の鋳物師(いもじ)がいた。港町としての堺の本格的な発展は、応仁(おうにん)の乱(1467~77)後、兵庫港にかわって遣明船(けんみんせん)が発着するようになってからである。代表的な貿易商人に湯川宣阿(せんあ)、池永宗巴(そうは)、小島三郎左衛門(さぶろうざえもん)などがいた。またこの時期、東寺領備中(びっちゅう)新見庄(にいみのしょう)や越後(えちご)赤谷の年貢の為替(かわせ)を堺商人が扱っており、野遠屋(のとおや)、天王寺屋などの堺商人が低利の大徳寺祠堂銭(しどうせん)を借りて商業活動を行っている。
戦国期になると会合衆(えごうしゅう)あるいは納屋衆(なやしゅう)(納屋貸(がし)衆)とよばれる門閥支配を行う有力商人たちによって都市自治が推し進められた。こうした富商は海岸に納屋(倉庫)をもって商品の保管などにあたったところから納屋衆とよばれた。これら納屋衆には鉄砲の売り込みや南方との交易により莫大(ばくだい)な利益を得る者がいた。今井宗久(そうきゅう)や呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)の異名をとった納屋助左衛門などが著名であり、小西隆佐(りゅうさ)・行長(ゆきなが)父子のように豊臣(とよとみ)秀吉によって大名にとりたてられたものもあった。そのほか、茶の湯の発達に貢献した武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休(せんのりきゅう)、津田宗及(そうきゅう)、音曲隆達節(りゅうたつぶし)で一世を風靡(ふうび)した高三(たかさぶ)隆達など安土(あづち)桃山期の文化面で活躍した人物もいた。
[小林保夫]