墨田区(読み)スミダク

デジタル大辞泉 「墨田区」の意味・読み・例文・類語

すみだ‐く【墨田区】

墨田

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日本歴史地名大系 「墨田区」の解説

墨田区
すみだく

面積:一三・七五平方キロ

東京都の東部に位置し、西を隅田すみだ川、東を荒川旧中きゆうなか川・横十間よこじつけん川が流れる。西は荒川区・台東区・中央区、東は葛飾区・江戸川区、南は江東区、北は旧綾瀬川を隔てわずかに足立区に接し、区域は北が狭く南が東西に広がる形を呈し、北十間きたじつけん川で南北にほぼ二分される。北半部を南西から北東に国道六号(水戸街道)、南端近くを東西に国道一四号(京葉道路)、隅田川沿いに首都高速六号向島線、南端たて川沿いを東西に首都高速七号小松川線が走る。鉄道は南部を東西にJR総武線が横断するほか、東武伊勢崎線・東武亀戸線・京成押上線などが通る。区域は東京低地とよばれる沖積地にあり、近世都市江戸の御府内東端にあたる。南半本所地域は現在も海抜零メートル地帯として知られ、古くは縄文海進時には海面下にあって、その後近世初頭段階までは低湿地帯であったものと推定されている。一方、北半の向島地域は本所に比べて陸地化が早い段階で進んだ。

〔古代・中世〕

律令制下では下総国葛飾郡に属し、東海道河曲かわわ駅を区域北部の旧隅田すだ村地区に比定する見解がある。また同所から東の現江戸川・江東両区域にかけては下総国浮島うきしま牛牧が広がっていたと考えられる。平安時代後期、桓武平氏の分流である豊島葛西氏が当地に進出し、建久年間(一一九〇―九九)には葛西かさい郡が伊勢神宮に寄進され葛西御厨として成立した。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)によると同御厨に含まれる地域は寺島てらじま下木毛河しもきねがわ隅田すだ小村江おむらえの四ヵ所で、区域の北部・東部に分布する。最北部に位置する隅田は現葛飾区立石たていし・江戸川区小岩こいわ・千葉県市川市へと通じていたとみられる古代の官道と、奥州へ向かう街道との分岐点となっていた。対岸の石浜いしはま(現荒川区・台東区)へ渡る隅田川(荒川、大川)沿いの河岸には平安時代末期に「宿」が形成されていた。治承四年(一一八〇)一〇月二日、源頼朝は石橋山合戦に敗退し房総半島から下総国府を経て隅田宿に至り、ここで乳母であった寒河尼とその子小山七郎宗朝(光朝)と参会した(吾妻鏡)。南部は西端を流れる隅田川の河口となっており、三角洲状に堆積した結果できた島がいくつもあり、このうち最も大きな島はうし島とよばれていた。中世の隅田川は牛島の北端から東に分流していたとみられ、牛島は応安元年(一三六八)一〇月日の善波胤久着到状写(諸州古文書)に「江戸牛島」とあることなどから、当時武蔵国に属していることが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「墨田区」の意味・わかりやすい解説

墨田〔区〕
すみだ

東京都 23特別区の一つ。1947年本所区と向島区が合体して成立。隅田川荒川に挟まれた江東デルタ地帯の北部に位置する。地名は隅田川の堤,墨堤と隅田川から 1字ずつとってつけられた。沖積低地にあり運河も多く,大横川,横十間川,北十間川,竪川などが流れる。南の江東区とともに明治以来,工場が進出,メリヤス,金属,機械器具などの中小工場や家内工業が多い。江東工業地域の中心をなし,工商住の混在過密地帯を形成。地盤沈下が著しく,江東防災拠点に指定されている 6地点のうち 4地点を占める。区域南部を JR総武線が通り,錦糸町駅周辺に商店街が発展。東武鉄道亀戸線・伊勢崎線,京成電鉄押上線が区域を北上,沿線には住宅団地が建設されている。向島百花園は国の史跡名勝に指定。1985年,国技館が蔵前から両国に移転し,1993年隣接地に江戸東京博物館も建てられた。2012年東京スカイツリーが開業。首都高速6号向島線と 7号小松川線が両国ジャンクションで連結し,堤通,向島,駒形,錦糸町インターチェンジがある。国道6号線,14号線が通る。面積 13.77km2。人口 27万2085(2020)。

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