須田国太郎(読み)スダクニタロウ

デジタル大辞泉 「須田国太郎」の意味・読み・例文・類語

すだ‐くにたろう〔‐くにタラウ〕【須田国太郎】

[1891~1961]洋画家京都の生まれ。独立美術協会会員。東西美術の融合を追求し、独自の明暗法による作品制作

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精選版 日本国語大辞典 「須田国太郎」の意味・読み・例文・類語

すだ‐くにたろう【須田国太郎】

  1. 洋画家。京都出身。京都帝国大学美学美術史科卒。関西美術院に学ぶ。スペイン留学、帰国後は独立美術協会会員となる。東西美術の融合を求め、独自の明暗法による近代油彩画境を開拓した。代表作「歩む鷲」「犬」。明治二四~昭和三六年(一八九一‐一九六一

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20世紀日本人名事典 「須田国太郎」の解説

須田 国太郎
スダ クニタロウ

昭和期の洋画家,美術史家 京都市立美術大学名誉教授。



生年
明治24(1891)年6月6日

没年
昭和36(1961)年12月16日

出生地
京都府京都市下京区堺町(現・中京区)

学歴〔年〕
京都帝大文科大学哲学科美学美術史専攻〔大正5年〕卒,京都帝国大学大学院美学美術史専攻〔大正7年〕中退

主な受賞名〔年〕
毎日美術賞(第10回)〔昭和34年〕

経歴
大正6年関西美術院に学ぶ。8年から12年までスペイン・マドリッドに居を構え、プラド美術館でエル・グレコティントレットの摸写に励む。昭和7年初めて個展を開き、9年独立美術協会会員となる。以後、独立展を中心に出品一方、美術史家として11年京都帝大講師等を経て、25年京都市立美大教授に就任。31年から学長代理を務め、35年名誉教授に。その作品は、光線を意図的に画面に導き入れた独特のもので、代表作は「法観寺塔婆」「歩む鷺」「犬」など。著書に「グレコ」「ゴヤ」「近代絵画とリアリズム」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「須田国太郎」の意味・わかりやすい解説

須田国太郎
すだくにたろう
(1891―1961)

洋画家。明治24年6月6日京都に生まれる。第三高等学校時代から油絵と謡曲を習う。京都帝国大学では美学美術史を専攻して「写実主義」を卒論とし、大学院では「絵画の理論と技巧」を研究テーマとするほか、関西美術院に通う。1919年(大正8)インド滞在を経てマドリードに至り、以後おもにプラド美術館で巨匠たちの作品を模写するほか、ヨーロッパの各地を巡遊する。23年帰国後は、母校京都帝大ほかで美術史を講じるかたわら油絵の制作、発表に励む。34年(昭和9)独立美術協会の会員となり、『法観寺塔婆』ほかを出品。40年の『歩む鷲(わし)』は文部省買上げとなる。東西美術の融合を求め、独自の明暗法による近代油彩画境を開拓し、47年(昭和22)日本芸術院会員に推された。50年京都市立美術大学教授、学長代理として後進の指導にあたりながら、独立展ほかにも発表を続け、『犬』などにみる神秘感を秘めた深い写実画境に達した。56年ベネチア・ビエンナーレ展に出品して好評を博し、59年毎日美術賞を受ける。昭和36年12月16日没。

[小倉忠夫]

『井上靖・河北倫明他編『日本の名画20 須田国太郎』(1976・中央公論社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「須田国太郎」の意味・わかりやすい解説

須田国太郎 (すだくにたろう)
生没年:1891-1961(明治24-昭和36)

洋画家。京都生れ。第三高等学校を経て京都帝国大学哲学科で美学・美術史を専攻し,大学院修了後スペインに留学してベネチア派絵画を中心に研究した。帰国後は,京大文学部で美術史を講ずる一方,三高時代から始めた油絵の制作も続け,1932年東京で個展を開催,34年独立美術協会会員となり,以後独立展に出品した。戦後は京都市立美術大学教授や日本芸術院会員となって幅広い活動を続けた。彼は,西洋絵画の理論的な研究を基礎に,黒や褐色を主体とする重厚な表現のうちに,深い精神性を宿した独自の画風を展開した。代表作に《犬》や《鵜》などがあり,西洋美術史の述作も多い。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「須田国太郎」の意味・わかりやすい解説

須田国太郎
すだくにたろう

[生]1891.6.6. 京都
[没]1961.12.16. 京都
洋画家。京都帝国大学文学部で美学美術史を専攻,1916年大学院に進む。1917年から 2年間関西美術院で本格的に絵を学んだ。1919年ヨーロッパへ留学,主としてスペインでエル・グレコ,フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスらの作品を模写研究し,1923年帰国。和歌山高等商業学校,京都帝国大学の講師を務め,1934年独立美術協会会員。暗褐色を基調としたモノクロームに近い画面は,東洋的感性とヨーロッパ的教養の融合を示した。また大阪市立美術研究所,京都市立美術大学などの教授を歴任し,美学美術史家としても有名。1947年日本芸術院会員となり,1959年毎日美術特別賞受賞。主要作品『花山天文台遠望』(1931),『歩む鷲』(1940,東京国立近代美術館),『犬』(1950,同)。主著『近代絵画とレアリスム』。

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百科事典マイペディア 「須田国太郎」の意味・わかりやすい解説

須田国太郎【すだくにたろう】

洋画家,美術史家。京都市に生まれ,京大で美学・美術史を学ぶ。卒業後関西美術院で素描を学び,ヨーロッパ旅行後,一時京大で美術史を講義したが,1932年から絵を発表し始め,1934年独立美術協会に入る。西欧的感覚と東洋的静寂の融合をめざした独自の画境を展開。代表作に《犬》《歩む鷲》《唐招提寺講堂》などがある。主著《グレコ》《ゴヤ》。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「須田国太郎」の解説

須田国太郎 すだ-くにたろう

1891-1961 昭和時代の洋画家。
明治24年6月6日生まれ。スペイン留学後,母校京都帝大で美術史を講義するかたわら油絵を制作。昭和9年独立美術協会会員,22年芸術院会員,25年京都市立美大教授。独特の明暗法で思想性ゆたかな画境を開拓した。昭和36年12月16日死去。70歳。京都出身。作品に「法観寺塔婆(とうば)」「犬」など。

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367日誕生日大事典 「須田国太郎」の解説

須田 国太郎 (すだ くにたろう)

生年月日:1891年6月6日
昭和時代の洋画家;美術史家。京都市立美術大学教授
1961年没

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