須郷村(読み)すごうむら

日本歴史地名大系 「須郷村」の解説

須郷村
すごうむら

[現在地名]飯豊町須郷

小坂こさか村の南、しら川右岸に位置する。広河原ひろがわら川を合せた小屋こや川が当村の南部白川に注ぐ。東方玉庭たまにわ(現東置賜郡川西町)を経て西進する越後街道脇道が通る。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一一六石余、免二ツ八分、家数一二(うち役家二、肝煎・小走一)・人数四七。蒲生氏高目録帳では村柄は下、高七一石余。寛永一五年(一六三八)検地帳(三浦文庫)では高三一八石余、名請人数三一、屋敷筆数二、持高一〇石未満が二三人と零細な土地所有者が多くを占める一方で、村内最高の孫兵衛の持高は六五石余に達する。明暦新帳(同文庫)では蔵入分が圧倒的に多く、給人分はわずか一・四パーセント(一人)にすぎない。


須郷村
すごうむら

[現在地名]直入町下田北しもたぎた 須郷・平沢水ひらそうず岡倉おかくら

塩手しおで村の南東城後じようご村の東、せり川と馬門まかど川に挟まれた山間に位置。田北氏の祖親泰が嘉禎二年(一二三六)父大友親秀から所領を譲与され、翌三年安堵の将軍家下文に「須郷」がみえる(「大友田北氏系図」田北赳夫本)。江戸時代には幕府領直入郡一二ヵ村の一で、領主変遷井手野いでの村と同じ。


須郷村
すごうむら

[現在地名]八尾町須郷

野須郷のすごう村の南方室牧むろまき川右岸にある。正保郷帳に須江村とみえ、村高北袋きたぶくろ村と合せて一五四石余、田方一町九反余・畑方八町三反余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高一五四石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高一一二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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