風村(読み)びようぶむら

日本歴史地名大系 「風村」の解説

風村
びようぶむら

[現在地名]北区八多町はたちようびようぶ

深谷ふかたに村の南にある有馬ありま郡の村。南は山地八部やたべ上谷上かみたにがみ村・下谷上村に接する。淡河おうご川の支流屏風川が地内を流れる。播磨から有馬温泉へ向かう有馬街道は、播磨国美嚢みなぎ野瀬のせ村から屏風川沿いに当村に至り、村北端部を通って柳谷やなぎだに村へと向かう。中世には南接する八部郡山田やまだ庄との間でたびたび境相論があり、応永三二年(一四二五)八多庄屏風村などの地下人が越境して山田庄大杣山に違乱をなしたため、その停止が命じられている(同年一二月二三日「室町将軍家御教書案」醍醐寺文書など)


風村
びようぶむら

[現在地名]三宅町大字風・三河みかわ

伴堂ともんど村の北にあたり、村域中央の環濠集落太子たいし道に沿う。東南の三河村は、かつては当村の出屋敷で、南の現南畑みなみはた集落(現大字伴堂)もかつては村域に含まれていた。地名由縁を「大和名勝志」は「屏風ノ里」の項で「玉林抄聖徳太子自鵤宮詣橘宮、道遠、故新作開道号直違路すぢちかひぢ、其中路而奉供御、常立屏風、故有此名云云」と記す。

鎌倉末期の律宗僧で、社会事業に力を尽した忍性は、建保五年(一二一七)当村で生れ、「感身学正記」は寛元二年(一二四四)二月二六日、著者の叡尊が「忍性亡母十三年の追善のため結崎屏風に移り住し」たと記している。


風村
びようぶむら

[現在地名]杉戸町

深輪ふかわ村の北に位置する。元禄郷帳に村名がみえ、高一五二石余。正保(一六四四―四八)頃の開発で、慶安(一六四八―五二)頃から屏風村と称したという(郡村誌)当初幕府領で、延享三年(一七四六)三卿の一橋領となったとされる。


風村
びようぶむら

[現在地名]多賀町

後谷うしろだに村の南東せり川北岸にある。寛永石高帳に高七九石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男五四・女五六、寺社方男一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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