飯積村(読み)いいづみむら

日本歴史地名大系 「飯積村」の解説

飯積村
いいづみむら

[現在地名]北川辺町飯積

利根川左岸に位置し、東は麦倉むぎくら村、南は利根川を隔てて大越おおごえ(現加須市)、西北二方はあいの川跡を境に上野国邑楽おうらしま村・下五箇しもごか(現群馬県板倉町)。天正二年(一五七四)一二月二日の御料所方書上(喜連川家料所記)によると、向古河むこうこが近辺の「いゝつみ」は古河公方領で、町野義俊に知行地として宛行われたが、同元年までは羽生勢に押領され、このときは上野館林城の長尾氏に妨害されていた。

田園簿では水損場と記され、田高三一一石余・畑高六〇六石余。寛文四年(一六六四)検地があった(風土記稿)。明和九年(一七七二)には一五〇石余が高入れされており、新田が開発されたことがわかる(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)


飯積村
いいづみむら

[現在地名]酒々井町飯積

古沢ふるさわ村の東、高崎たかさき川中流左岸台地上に位置。古くは「いずみ」と称し、中央のいずみには村名起源にかかわると伝える湧水地がある。中央を酒々井しゆすい村の所城ところじから住野すみの(現八街市)に向かう道が通る。その途次、尾上おがみ村との境の高崎川に尾上橋が架かる。またこの道と分岐して新橋につぱし(現富里町)へ向かう作場さくば(通称野馬道)があり、当地北端の鍛治畑かじばたけの三差路に立つ寛政一一年(一七九九)在銘の道標には「従是東八日市ば道 右尾上さくら道 左飯積村」と刻まれている。この作場道は江戸時代には八日市場と結ぶ重要な道の一つであった。


飯積村
いいづみむら

[現在地名]養老町飯積

直江なおえ村の北西、牧田まきだ川と支流の小畑おばた川に囲まれた低地帯に立地。北は小畑川を挟んで飯田いいだ村。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳にみえる徳永昌重(高須藩)領で、高四一〇石余の領富村は、正保郷帳などと支配領主と石高が一致することから当村に比定される。正保郷帳によると同藩領で、田三五六石余・畑五三石余。元禄郷帳、安永四年(一七七五)の村明細帳では幕府領で、同明細帳によると家数四六・人数一八〇、馬九、郷蔵一、悪水落圦二・悪水落埋圦一・悪水掛圦二、当村専用江堀二三〇間、直江村金屋かなや村との共同江堀六七五間。両村と当村を囲む輪中堤は三千四九〇間余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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