高木兼寛(読み)タカギカネヒロ

デジタル大辞泉 「高木兼寛」の意味・読み・例文・類語

たかぎ‐かねひろ【高木兼寛】

[1849~1920]衛生学者。日向の人。海軍軍医総監。日本初の医学博士。有志共立東京病院(東京慈恵会医大病院の前身)を設立したほか、海軍の食事麦飯に替えて脚気かっけ防止に努めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高木兼寛」の意味・わかりやすい解説

高木兼寛
たかぎかねひろ
(1849―1920)

明治・大正期の海軍軍医。「けんかん」ともよぶ。日向国(ひゅうがのくに)(宮崎県)に高木兼次の子として生まれる。幼名は藤四郎。8歳から山中香山に漢学を学び、18歳で鹿児島に出て、蘭医(らんい)石神良策(1821―1875)に師事した。戊辰(ぼしん)の役に従軍したのち、ふたたび鹿児島に戻って医学開成学校に入学、学校長のイギリス人医師ウィリスに才能を認められ、イギリス留学を勧められた。1872年(明治5)海軍軍医となり、1875年イギリスに留学、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学し、1880年に同校を優秀な成績で卒業した。帰国後、海軍病院長、海軍省医務局長を歴任、1885年に海軍軍医総監、1888年に日本最初の医学博士の一人となった。その間、1881年に成医会を結成し、成医会講習所(東京慈恵会医科大学の前身)を創立、また1883年には大日本私立衛生会の創立にも加わった。

 1882年ころの海軍の脚気(かっけ)罹病(りびょう)者は1000人当り400人にも達し、国防上の大問題となった。高木は海軍兵食の改善を図り、主食には米飯とパンを用いたが、副食には肉を多くし、脚気を防ぐのに成功した。

三浦豊彦


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改訂新版 世界大百科事典 「高木兼寛」の意味・わかりやすい解説

高木兼寛 (たかぎかねひろ)
生没年:1849-1920(嘉永2-大正9)

明治・大正期の軍医。宮崎県生れ。幼名藤四郎。石神良策,W.ウィリスに医学を学び,1872年(明治5)海軍省出仕。75年ロンドンのセント・トマス病院医学校に留学し,80年帰国,東京海軍病院長となる。81年成医会をつくり,成医会講習所(京橋区鎗屋町)の所長となる(東京慈恵会医大はこれを原点としている)。翌82年有志共立東京病院(同大学付属病院の前身)を設立し,85年同院に看護婦養成所を設立し,日本最初のナイチンゲール式近代看護教育を開始した。成医会講習所は何回かの名称・組織の変更を経て今日の東京慈恵会医大に至るが,ドイツ医学主流の当時にイギリス医学を導入した。85年には海軍軍医総監となる。海軍軍陣医学の近代化への貢献は大きいが,とくに脚気減少のために努力した。開化期の先端的文化人としての活躍(鹿鳴館のバザー,神前結婚,オーナードライバー,洋装のすすめ)も忘れることができない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高木兼寛」の意味・わかりやすい解説

高木兼寛
たかきかねひろ

[生]嘉永2(1849).9.15. 日向
[没]1920.4.12. 東京
軍医,医学者。日向国穆佐村 (むかさむら) に薩摩藩士高木喜助の長男として生まれる。幼名は藤四郎,穆園 (ぼくえん) と号した。鹿児島開成学校でウィリアム・ウィリスに医学を学び,1872年海軍軍医となり,海軍病院でウィリアム・アンダーソンの指導を受け,1875年イギリスに留学。セントトマス医学校に入学,1880年,日本人として初めてイギリス外科医師会の会員となって帰国した。 1883年脚気病調査委員になり,海軍練習艦隊がサンフランシスコに寄港中,脚気の発病者を出さなかったことに注目,脚気が日本式兵食に起因するとして,パン,肉類,野菜を主とする洋式兵食に変え,1885年に脚気発病率を 0.5%,1886年は 0.35%に減少させた。のち海軍軍医総監となり,また 1881年成医会講習所 (東京慈恵会医科大学の前身) を設け,有志共立東京病院 (東京慈恵会医院の前身) を建てた。さらに 1885年,同病院内に看護婦教育所を設け,看護教育の先鞭をつけた。

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朝日日本歴史人物事典 「高木兼寛」の解説

高木兼寛

没年:大正9.4.13(1920)
生年:嘉永2.9.15(1849.10.30)
明治大正期の海軍軍医,教育者。日向国(宮崎県)東諸県郡穆佐村白土坂生まれ。薩摩(鹿児島)藩士高木喜助の長男。幼名は藤四郎,穆園と号した。慶応2(1866)年石神良策について医学を修め,翌年岩崎俊斎の門に入って蘭学を学んだ。慶応4年6月藩兵付属医師として東北征討軍に従って奥州を転戦した。明治5(1872)年4月師の石神のすすめに従って海軍軍医となり,8年6月ロンドンのセント・トーマス医学校に留学し,優秀な成績を修めて13年11月帰国。その後栄進して18年12月海軍軍医総監に任じられた。当時海軍にはびこっていた脚気を撲滅するため,白米食を排して麦飯を支給し,海軍から脚気を一掃することに成功した。のち男爵を授けられたとき(1905),「麦飯男爵」とあだ名された。海軍に勤務するかたわら,14年には東京に成医会講習所(東京慈恵会医科大)を設立,15年には有志共立東京病院,18年には看護婦養成所を創り,医師とあわせて看護婦の養成にも尽力した。<参考文献>東京慈恵会医科大学創立八十五年記念事業委員会編『高木兼寛伝』,松田誠『脚気をなくした男 高木兼寛伝』

(深瀬泰旦)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高木兼寛」の解説

高木兼寛 たかき-かねひろ

1849-1920 明治-大正時代の医学者。
嘉永(かえい)2年9月15日生まれ。鹿児島で西洋医学をまなび,明治5年海軍軍医。イギリスに留学,18年海軍軍医総監となる。脚気の栄養原因説を主張,麦飯の採用など兵食の改善で海軍の脚気を撲滅。成医会講習所(東京慈恵医大の前身),有志共立東京病院,看護婦養成所を設立。日本最初の医学博士。大正9年4月13日死去。72歳。日向(ひゅうが)(宮崎県)出身。幼名は藤四郎。号は穆園。

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世界大百科事典(旧版)内の高木兼寛の言及

【脚気】より

…とくに明治政府の富国強兵策による軍隊の増強とともに,脚気は兵営に急速に増加し,明治初年には陸軍で兵士の5分の1から3分の1がこれを発症し,日清・日露の戦時には前線将兵のほぼ4分の1が脚気となり,それは総傷病者数の2分の1というありさまであった。脚気の病因については,当時なお中毒説・伝染説・栄養障害説がこもごも論ぜられ,治療のきめ手を欠いていたが,イギリスの衛生学を学んできた海軍の高木兼寛は,いちはやく脚気対策の重点を食に置き,兵食改良に着手し,海軍では兵食を米麦混食にしてから脚気は急速に減少した。【立川 昭二】。…

【東京慈恵会医科大学】より

…東京都港区西新橋に本部をおく医科専門の私立大学。1881年医療改善と医学研究を目的とする開業医の団体成医会(会長高木兼寛)が開設した夜間の医師養成機関,成医会講習所が起源。90年に修業年限4年,学生定員300名の成医学校に発展。…

【ビタミン】より

…しかし,生理学,栄養学的にビタミンの研究が進んだのは,19世紀後半になってからであった。 日本海軍の軍医であった高木兼寛は1882‐84年,軍艦乗組員の大規模な栄養調査を行った。82年,東京からニュージーランドに向かった軍艦〈竜驤(りゆうじよう)〉は,272日の航海中,169人の脚気患者と25人の脚気による死者を出した。…

※「高木兼寛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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