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高校野球 こうこうやきゅう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高校野球
こうこうやきゅう

「全国高等学校野球選手権大会 選抜高等学校野球大会」のページをご覧ください。

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知恵蔵2015の解説

高校野球

2006年5月現在、日本学生野球協会傘下の日本高等学校野球連盟には、4192校(=硬式。軟式は513校)が加盟。主たる活動として、甲子園球場を舞台にした春の選抜高校野球大会、夏の全国高校野球選手権大会がある。春の大会は、1924年に毎日新聞社主催で始められた。新チームによる秋季地区大会で選考委員が集めた資料をもとに、技能ばかりでなく、校風・品位も選抜の基準となるため、不祥事などで出場できないケースもある。また、21世紀枠、希望枠、神宮大会枠の特別枠も設けられている。全国選手権朝日新聞社の主催で15年にスタートした予選からのトーナメント方式。第1回には73校だった都道府県予選も年々盛んになり、2006年の第88回大会には4112校が参加した。優勝校には春は紫紺、夏には深紅の優勝旗が与えられる。1999年の選抜では沖縄尚学が優勝し、05年の夏は駒大苫小牧が57年ぶりの連覇を果たしたが、東北勢はいまだに優勝旗を手にしていない。06年の選抜は横浜、選手権大会は早稲田実業が優勝した。金属バットの使用可。会長は脇村春夫

(武田薫 スポーツライター / 2008年)

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デジタル大辞泉の解説

こうこう‐やきゅう〔カウカウヤキウ〕【高校野球】

高等学校の対校野球試合。特に、毎年甲子園球場行われる春の選抜大会(選抜高等学校野球大会)と夏の選手権大会(全国高等学校野球選手権大会)。

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百科事典マイペディアの解説

高校野球【こうこうやきゅう】

高等学校の教育活動の一環として行われる野球。とくに春の選抜高等学校野球大会および夏の全国高等学校野球選手権大会が2大行事となっている。旧制の中等学校野球を継いで,1948年の学制改革から高校野球と呼ばれる
→関連項目社会人野球

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世界大百科事典 第2版の解説

こうこうやきゅう【高校野球】

高等学校の教育の一環として課外活動で行われる野球。現在,高校生が行っている野球には硬式野球と軟式野球があり,いずれも日本高等学校野球連盟によって統轄されている。そのうち,競技人口が多く競技大会の規模が大きいのは硬式野球である。したがって一般的に高校野球といった場合,硬式野球を指すことが多いのが現状である。 硬式野球の競技会を代表する大会は,春の選抜高等学校野球大会(毎日新聞社,日本高等学校野球連盟共催)と,夏の全国高等学校野球選手権大会(朝日新聞社,日本高等学校野球連盟共催)である。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高校野球
こうこうやきゅう

高校生の野球試合のこと。1936年(昭和11)にプロ野球が誕生するまでは、日本の野球は中等学校野球と東京六大学の野球によって代表されていた。その中等学校野球が第二次世界大戦後の学制改革で高校野球となったのである。したがって、今日の高等学校の野球の歴史は、旧制の中等学校の野球の歴史から始まる。[神田順治・森岡 浩]

歴史

1915年(大正4)夏に朝日新聞社が主催して、第1回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)を大阪の豊中(とよなか)球場で開催した。この第1回大会を契機として全国の中等学校野球は急速に普及し、日本野球界隆盛の温床となった。その結果、大学チームの内容改善にも大いに貢献した。この大会を開催した朝日新聞社は、あくまでも野球を国民の気力の源泉となることを目的とした。そのため、プロ的スポーツマン気質が学生間に入り込まないように、学生に対しアマチュア・スポーツマンとしての本分を忘れぬよう厳に戒めたことは注目すべき点である。このように慎重な配慮を主催者が最初に示したことがその後の輝かしい歴史の礎(いしずえ)となった。続いて1924年以後、毎年3月末から4月にかけて全国選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)を毎日新聞社が主催することになった。この大会は、地方の試合成績によって推薦制度で招待することが特色である。こうして中等学校野球は、春は毎日、夏は朝日と二大新聞社が競争で大会を実施するに至った。また、1924年秋に東京において第1回の明治神宮体育大会が開催され、この大会の一大行事として、春・夏の大会で活躍した中等学校のチームによる野球大会を行うことになった。この大会が第二次世界大戦後は国民体育大会(国体)に受け継がれている。以上の3大会が戦前の中等学校野球、戦後の高校野球界の発展に寄与している。
 1915年の第1回大会以来、順調に発展してきた全国大会も、第二次世界大戦中、42年(昭和17)に文部省が新聞社の主催を否として大会を中止させた。しかし、戦後の混乱期の1946年の夏には早くも復活し、新たに結成をみた全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟)と朝日新聞社の共催で第28回大会を挙行した。また、同年秋の第1回国民体育大会にも中等学校野球が参加した。翌47年春には毎日新聞社が選抜大会を復活し、第19回大会を実施した。1948年から学制改革により中等学校が新制の高等学校に変じ、中等学校野球が高校野球とよばれることになった。
 この後、高校野球は発展の一途をたどり、2002年(平成14)の夏の大会の予選に参加した高校チームの数は4163校にのぼった。これは、終戦直後の1946年の745校の約5.6倍にあたり、1915年の第1回大会の73校に比較すれば驚異的数字である。
 高校野球発展の理由としては次の3点があげられる。
(1)ジャーナリズムの支援。その代表的なものは朝日新聞紙上に飛田穂洲(とびたすいしゅう)が健筆を振るったこと。
(2)ラジオ、テレビが放送を行ったこと。1927年からラジオが克明に大会の実況放送を始め、53年からはテレビの中継放送も開始された。
(3)甲子園球場の完成。1924年夏、阪神電鉄が武庫川(むこがわ)畔に大球場を建設し、以後、春・夏大会ともに甲子園球場で行われ、「甲子園」は高校野球全国大会の代名詞となっている。[神田順治・森岡 浩]

記録・話題

こうして今日、高校野球は隆盛を迎えているが、この間にさまざまなエピソードが生まれた。1915年の第1回大会が行われた豊中球場は、収容人員400人たらずのよしず張り屋根の木造スタンド、外野は土盛りであった。第4回大会は米騒動で中止。第6回大会(1920)では、当時年齢制限がなかったために、前年まで法政大学選手の小方二十世(はたよ)投手が豊国(ほうこく)中学から出場した。第12回大会(1926)の静岡中対前橋中戦は静岡の上野精三と前橋の丸橋仁両投手の奮闘により延長19回に及び、さらに第19回大会(1933)の準決勝における中京商と明石(あかし)中の対戦は、中京の吉田正男と明石の中田武雄両投手の投げ合いで延長25回、試合時間4時間55分の熱戦の末、1対0で中京商が勝利。また、第40回大会(1958)準々決勝、徳島商の板東英二(ばんどうえいじ)、魚津(うおづ)高の村椿輝雄(むらつばきてるお)の投げ合いは延長18回、3時間38分、0対0で、翌日再試合となり3対1で徳島商の勝利、さらに第51回大会(1969)決勝戦は、松山商の井上明、三沢高の太田幸司の投げ合いで延長18回、4時間16分、0対0で、初の決勝再試合となり4対2で松山商が優勝したのをはじめ、1941年春の第18回大会で試合中に左腕を骨折しながら力投を続けた別所毅彦(たけひこ)投手(滝川中)など、印象深い試合は投手が中心であった。しかし、1974年から金属バットの使用が認められ長打が多くなり、その年の大会ではオーバーフェンスのホームランが計11本も出た。第59回大会(1977)には、大鉄高の川端正が史上初の満塁サヨナラホームランを打ち(対津久見高)、決勝戦では東洋大姫路高の安井浩二が対東邦高戦で決勝史上初のサヨナラホームランを放った。こうしたなかで、春夏あわせても初めてという完全試合を1978年春の第50回大会で前橋高の松本稔投手が対比叡山(ひえいざん)高戦に1対0で達成、次いで94年(平成6)春の第66回大会で金沢高の中野真博(まさひろ)投手が対江の川(ごうのかわ)高戦で達成している。
 1982年(昭和57)夏、池田高の登場で高校野球の様相が一変した。監督蔦文也(つたふみや)の指導のもと、1番から9番までの各選手がグリップいっぱいにバットを長く持ち、フルスイングしてくる打線は各校の投手に恐怖感すら与えた。この大会、準々決勝で当時実力人気ともに絶頂にあった早稲田実業の投手荒木大輔を攻略、決勝でもバントを多用した甲子園戦法で立ち向かう広島商を大差で降して優勝した。翌83年春も初戦から大量点で勝ち進んで夏春連覇を達成、高校野球に「池田時代」を築いた。その年の夏、ふたたび順当に勝ち進む池田高の前に、桑田真澄、清原和博という驚異の1年生コンビを軸としたPL学園高が立ちはだかった。準決勝で対戦したPL学園高は、7対0と一方的に池田高を降して優勝、「PL学園時代」の幕をあけた。以後1987年まで次々と好選手を輩出し、毎年のように決勝戦まで進出した。しかし、平成に入ると各校の勢力が均衡し、特定の高校が毎年強力チームを率いて登場することは少なくなった。
 こうしたなか、1998年(平成10)松坂大輔を擁する横浜高が登場、圧倒的な投手力をもって春夏連覇を達成した。同校は前年の秋の県大会・関東大会、明治神宮野球大会、春の県大会・関東大会、さらに国体と、すべての公式戦に優勝して年間無敗という大記録を打ち立てたほか、松坂投手は夏の第80回大会決勝戦でノーヒットノーランを達成するなど、数々の記録を残した。
 1999年春の第71回大会において、沖縄代表の沖縄尚学(しょうがく)高が優勝、春夏通じて初めて優勝旗が沖縄に渡った。また、2004年夏の第86回大会では、駒沢大附属苫小牧(とまこまい)高が優勝、初めて優勝旗が津軽海峡を越えた。[神田順治・森岡 浩]

課題

一時のサッカー人気の沸騰により、高校野球の将来が不安視されたこともあったが、いまだにその人気は落ちていない。また日本高等学校野球連盟は、健康管理の面から、大会前に投手の健康診断を実施、1人の投手だけに頼らず複数の投手を起用することを各校に要請している。さらに、在日外国人学校・京都韓国学園の予選各地域における参加や、本大会での高校生による司会進行など、いまや国民行事となった大会のあり方を改革し続けているが、予選各地域における参加校数のアンバランスや、参加校数の少ない地域の高校への「野球留学」の是非、本大会の過密日程などをめぐっては議論が絶えない。[神田順治・森岡 浩]

全国高等学校軟式野球選手権大会

1956年(昭和31)に第1回大会を開始。硬式の甲子園大会より規模は小さく、全国16地区の代表によって、全国大会が8月末大阪府か兵庫県下の球場において挙行される。[神田順治・森岡 浩]

全国高等学校定時制通信制軟式野球大会

甲子園の高校野球大会の盛大さと対照的な、働きながら学ぶ青少年のための野球大会である。「もう一つの甲子園大会」とよばれている。硬式の大会では、その年の4月2日に19歳以上の者は選手として参加できないのに対し、この大会では年齢制限はいっさいない。1977年(昭和52)の大会が長雨で中止になったため泣く泣く帰る選手に同情したタレントの萩本欽一(はぎもときんいち)が、翌年からかならず会場に駆けつけ選手を激励することにしたことが一因となり、テレビにも放映され脚光を浴びるようになった。1953年8月に第1回大会を開催、以来神宮球場を中心に毎夏挙行している。[神田順治・森岡 浩]
『朝日新聞社編『甲子園グラフィティ』(朝日文庫) ▽松尾俊治編『不滅の高校野球』(1984・ベースボール・マガジン社) ▽神田順治編著『高校野球の事典』(1986・三省堂) ▽森岡浩編『甲子園全出場校大事典』(2000・東京堂出版)』

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