高校生の野球試合のこと。1936年(昭和11)にプロ野球が誕生するまでは、日本の野球は中等学校野球と東京六大学の野球によって代表されていた。その中等学校野球が第二次世界大戦後の学制改革で高校野球となったのである。したがって、今日の高等学校の野球の歴史は、旧制の中等学校の野球の歴史から始まる。
[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]
中等学校野球は大学や高等学校の付属校を中心に始まった。1885年(明治18)ごろには東京府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)でも行われていたといい、しだいに各地の中等学校に広がっていった。1915年(大正4)夏に朝日新聞社が主催して、第1回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会、夏の甲子園)を大阪の豊中(とよなか)グラウンドで開催した。この第1回大会を契機として全国の中等学校野球は急速に普及し、日本野球界隆盛の契機となった。その結果、大学チームの内容改善にも大いに貢献した。この大会を開催した朝日新聞社は、あくまでも野球を国民の気力の源泉となることを目的とした。そのため、プロ的スポーツマン気質が学生間に入り込まないように、学生に対しアマチュア・スポーツマンとしての本分を忘れぬよう厳に戒めたことは注目すべき点である。このように慎重な配慮を主催者が最初に示したことが、その後の輝かしい歴史の礎(いしずえ)となった。続いて1924年以後、毎年3月末から4月にかけて全国選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会、春の甲子園)を毎日新聞社が主催することになった。この大会は、地方の試合成績によって推薦制度で招待することが特色である。こうして中等学校野球は、春は毎日、夏は朝日と二大新聞社が競争で大会を実施するに至った。また、1924年秋に東京において第1回の明治神宮体育大会が開催され、この大会の一大行事として、春・夏の大会で活躍した中等学校のチームによる野球大会を行うことになった。この大会が第二次世界大戦後は国民体育大会(国体)に受け継がれている。以上の3大会が戦前の中等学校野球、戦後の高校野球界の発展に寄与している。
1915年の第1回大会以来、順調に発展してきた全国大会も、第二次世界大戦中、1942年(昭和17)に文部省が新聞社の主催を否として大会を中止させた。しかし、戦後の混乱期の1946年(昭和21)の夏には早くも復活し、新たに結成をみた全国中等学校野球連盟(現、日本高等学校野球連盟)と朝日新聞社の共催で第28回大会を挙行した。また、同年秋の第1回国民体育大会にも中等学校野球が参加した。翌1947年春には毎日新聞社が選抜大会を復活させ、第19回大会を実施した。1948年から学制改革により中等学校が新制の高等学校に変じ、中等学校野球が高校野球とよばれることになった。
この後、高校野球は発展の一途をたどり、2002年(平成14)と2003年の夏の大会の予選に参加した高校チームの数は各4163校に上った。これは、終戦直後の1946年の745校の約5.6倍にあたり、1915年の第1回大会の73校に比較すれば驚異的数字である。しかし、その後は少子化の影響もあって減少し、2022年(令和4)の参加校数は3547校であった(いずれも夏の甲子園)。
高校野球発展の理由としては次の3点があげられる。
(1)ジャーナリズムの支援。その代表的なものは朝日新聞紙上に飛田穂洲(とびたすいしゅう)が健筆を振るったこと。
(2)ラジオ、テレビが放送を行ったこと。1927年からラジオが克明に大会の実況放送を始め、1953年からはテレビの中継放送も開始され、原則全試合が中継された。
(3)甲子園球場の完成。1924年夏、阪神電鉄が武庫川(むこがわ)畔に大球場を建設し、以後、春・夏大会ともに甲子園球場で行われ、「甲子園」は高校野球全国大会の代名詞となっている。
[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]
こうして今日、高校野球は隆盛を迎えているが、この間にさまざまなエピソードが生まれた。
1915年の全国高等学校野球選手権大会第1回大会が行われた豊中グラウンドは、収容人員400人たらずのよしず張り屋根の木造スタンド、外野は土盛りであった。第4回大会は米騒動で中止。第6回大会(1920)では、当時年齢制限がなかったために、前年まで法政大学の選手であった小方二十世(おがたはたよ)投手が豊国(ほうこく)中学から出場した。第12回大会(1926)の準々決勝で行われた静岡中対前橋中戦は静岡の上野精三と前橋の丸橋仁(まるばしじん)(1909―?)両投手の奮闘により延長19回に及び、6対5で静岡中が勝った。さらに第19回大会(1933)の準決勝における中京商と明石(あかし)中の対戦は、中京商の吉田正男(1914―1996)と明石の中田武雄(1915―1943)両投手の投げ合いで延長25回、試合時間4時間55分の熱戦の末、1対0で中京商が勝利。また、第40回大会(1958)準々決勝での、徳島商の板東英二(ばんどうえいじ)(1940― )、魚津(うおづ)高の村椿輝雄(むらつばきてるお)(1940― )の投げ合いは、延長18回、3時間38分、0対0で、翌日再試合となり3対1で徳島商の勝利。さらに第51回大会(1969)決勝戦は、松山商の井上明(1951― )、三沢高の太田幸司(1952― )の投げ合いで延長18回、4時間16分、0対0で、初の決勝再試合となり、4対2で松山商が優勝した。これらの試合をはじめ、戦前の1941年選抜高等学校野球大会(春の選抜)第18回大会で試合中に左腕を骨折しながら力投を続けた別所毅彦(たけひこ)投手(滝川中)など、印象深い試合は投手の活躍が中心であった。
しかし、1974年から金属バットの使用が認められ長打が多くなり、その年の大会ではオーバーフェンスのホームランが計11本も出た。第59回大会(1977)には、大鉄高の川端正が史上初の満塁サヨナラホームランを打ち(対津久見(つくみ)高)、決勝戦では東洋大姫路高の安井浩二(1959― )が対東邦高戦で決勝史上初のサヨナラホームランを放った。
こうしたなかで、春夏あわせても初めてという完全試合を1978年春の第50回大会で前橋高の松本稔(みのる)(1960― )投手が対比叡山(ひえいざん)高戦において1対0で達成、ついで1994年(平成6)春の第66回大会で金沢高の中野真博(まさひろ)(1976― )投手が対江の川(ごうのかわ)高戦で達成している。
1982年(昭和57)夏、池田高の登場で高校野球の様相が一変した。監督蔦文也(つたふみや)(1923―2001)の指導のもと、1番から9番までの各選手がグリップいっぱいにバットを長く持ち、フルスイングしてくる打線は各校の投手に恐怖感すら与えた。この大会では、池田高は準々決勝で当時実力人気ともに絶頂にあった早稲田実業の投手荒木大輔(あらきだいすけ)(1964― )を攻略、決勝でもバントを多用した甲子園戦法で立ち向かう広島商を大差で降して優勝した。翌1983年春も初戦から大量点で勝ち進んで夏春連覇を達成、高校野球に「池田時代」を築いた。その年の夏、ふたたび順当に勝ち進む池田高の前に、桑田真澄(1968― )、清原和博(かずひろ)という驚異の1年生コンビを軸としたPL学園高が立ちはだかった。準決勝で対戦したPL学園高は、7対0と一方的に池田高を降して優勝、「PL学園時代」の幕があがった。以後1987年まで次々と好選手を輩出し、毎年のように決勝戦まで進出した。しかし、平成に入ると各校の勢力が均衡し、特定の高校が毎年強力チームを率いて登場することは少なくなった。
こうしたなか、1998年(平成10)松坂大輔を擁する横浜高が登場、圧倒的な投手力をもって春夏連覇を達成した。同校は前年の秋の県大会・関東大会、明治神宮野球大会、春の県大会・関東大会、さらに国体と、すべての公式戦に優勝して年間無敗という大記録を打ち立てたほか、松坂投手は夏の第80回大会決勝戦でノーヒットノーランを達成するなど、数々の記録を残した。
1999年春の第71回大会において、沖縄代表の沖縄尚学(しょうがく)高が優勝、春夏通じて初めて優勝旗が沖縄に渡った。また、2004年(平成16)夏の第86回大会では、駒沢大附属苫小牧(とまこまい)高が優勝、初めて優勝旗が津軽海峡を越えた。さらに2022年(令和4)夏に開催された第104回大会では仙台育英高校が優勝し、東北勢が史上初めて頂点にたった。ちなみに同校は春夏あわせて通算100校目の甲子園大会優勝校ともなった。
21世紀に入ると、2001年に春の選抜大会に21世紀枠(一定の条件を満たした学校のなかから、選考委員会によって選ばれる出場枠)を導入、2003年には神宮大会枠と希望枠(2008年で廃止)を新設することで、出場校の多様化を図った。2013年には夏の大会から準々決勝の翌日に休養日を設定(2019年には準決勝翌日にも追加)、2018年には春の選抜大会からタイブレーク制度(延長13回から無死走者一・二塁の設定で開始。決勝は除く。2023年以降、延長10回からに変更)を導入するなど、選手の負担軽減に向けた改革を次々と行っている。2020年は新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)の蔓延(まんえん)により、春夏ともに開催が中止された。
[神田順治・森岡 浩 2023年6月19日]
一時のサッカー人気の沸騰により、高校野球の将来が不安視されたこともあったが、いまだにその人気は落ちていない。また、日本高等学校野球連盟は、健康管理の面から、大会前に投手の健康診断を実施、1人の投手だけに頼らず複数の投手を起用することを各校に要請している。さらに、在日外国人学校の予選各地域における参加や、本大会での高校生による司会進行の採用など、いまや国民行事となった大会のあり方を改革し続けている。しかし予選各地域における参加校数のアンバランスの問題や、参加校数の少ない地域の高校への「野球留学」の是非、地方大会・全国大会を通じた過密日程などをめぐっては議論が絶えない。
[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]
1956年(昭和31)に第1回大会を開始。硬式の甲子園大会より規模は小さく、全国16地区の代表によって、全国大会が8月末に大阪府で開催された。1981年からは会場を兵庫県の球場に移して行われている。
[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]
甲子園の高校野球大会の盛大さと対照的な、働きながら学ぶ青少年のための野球大会である。「もう一つの甲子園大会」とよばれている。硬式の大会では、その年の4月2日に19歳以上の者は原則、選手として参加できないのに対し、この大会では年齢制限はいっさいない。1977年(昭和52)の大会が長雨で中止になったため泣く泣く帰る選手に同情したタレントの萩本欽一(はぎもときんいち)(1941― )が、翌1978年からかならず会場に駆けつけ選手を激励することにしたことが一因となり、テレビにも放映され脚光を浴びるようになった。1953年8月に第1回大会を開催、以来神宮球場、ついで駒沢オリンピック公園硬式野球場などを中心に毎夏挙行している。天理高が強豪として知られ、2022年時点で15連覇を継続中である(2020年の第67回大会は新型コロナウイルス感染症の影響で中止)。
[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]
『松尾俊治著『不滅の高校野球』(1984・ベースボール・マガジン社)』▽『神田順治編著『高校野球の事典』(1986・三省堂)』▽『森岡浩編『甲子園全出場校大事典』増補改訂版(2008・東京堂出版)』▽『森岡浩著『高校野球100年史』(2015・東京堂出版)』▽『朝日新聞社編『甲子園グラフィティ』全2冊(朝日文庫)』
高等学校の対抗野球試合。軟式の大会や,定時制高等学校の大会もあるが,硬式ボールで行われる春の選抜高等学校野球大会(毎日新聞社,日本高校野球連盟共催)と,夏の全国高等学校野球選手権大会(朝日新聞社,日本高校野球連盟共催)が二大行事となっている。いずれも第2次世界大戦前は新聞社主催の中等学校野球大会として親しまれ,大学野球とともに日本での競技普及に大きく貢献した。1946年に連盟が設立されて新聞社との共催となり,48年の学制改革に伴って高校野球と呼ばれるようになった。夏の大会は,1915年全国中等学校優勝野球大会として予選参加73校でスタート,24年に甲子園球場が完成してからは同球場を舞台に開催されてきた。予選参加校数は増加の一途をたどり,78年第60回大会ではついに3000校を突破した。また同大会以降,全国47都道府県のすべてから49代表(東京,北海道は各2)が甲子園に出場するようになった。春の大会は1924年に全国選抜中等学校野球大会として始まり,第2回大会以降甲子園で開催されている。この大会は,地区の勝抜き方式をとる夏の大会と異なり,学校の品位,校風,さらには地域性といった要素をも加味した独特な選抜方法を特徴とする。
近年,高校野球熱が異常なほどの高まりを見せ,甲子園大会が郷土祭り的な色彩を強める中で,さまざまなひずみもクローズアップされてきた。家族はもちろん,学校,地域ぐるみのあまりにも加熱したムードは少年たちのおごりや焦りを誘発しがちであり,不祥事をあばき出す密告合戦といった事態さえ引き起こしている。日本高校野球連盟では長年会長を務めた佐伯達夫(1892-1980)のもと,野球は教育の場であり,関係者はみずからをきびしく律しなければならないとする考え方により,不祥事に関しては連帯責任という対処をしてきた。しかし,最近は学校側の措置を尊重するなど,対応そのものについての見直しを図りつつある。
執筆者:岡本 彰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(武田薫 スポーツライター / 2008年)
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