高橋作衛(読み)たかはし・さくえ

朝日日本歴史人物事典 「高橋作衛」の解説

高橋作衛

没年:大正9.9.12(1920)
生年:慶応3.10.10(1867.11.5)
明治大正期の国際法学者。信濃高遠藩(高遠町)の儒者高橋白山の子。明治27(1894)年帝大法科卒。穂積陳重推薦で海軍大学校教授となり,日清戦争(1894~95)に国際法顧問として旗艦松島に乗って従軍。威海衛で丁汝昌提督への降伏勧告文を起草した。30~34年ヨーロッパ留学ののち,東京帝大教授。日露戦争(1904~05)に際しての対露強硬論七博士のひとりで,軍嘱託として参戦した。大正3~5(1914~16)年大隈内閣の法制局長官,5年貴族院勅選議員となる。著書は多いが,大著『平時国際法論』は著名。明治40年秋渡米した際,西海岸の日本人無政府主義者たちの活動を探知し,密かに山県有朋に報告し,それが大逆事件(1910)摘発の一契機となったという。

(長尾龍一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高橋作衛」の解説

高橋作衛 たかはし-さくえ

1867-1920 明治-大正時代の法学者。
慶応3年10月10日生まれ。高橋白山の長男。海軍大学校教授。日清(にっしん)戦争に法律顧問として従軍。のち母校東京帝大の教授となる。桂太郎首相に対露強硬論を提出した七博士のひとり。大正9年9月12日死去。54歳。信濃(しなの)(長野県)出身著作に「戦時国際公法」「平時国際法論」など。

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