高水寺城跡(読み)こうすいじじようあと

日本歴史地名大系 「高水寺城跡」の解説

高水寺城跡
こうすいじじようあと

[現在地名]紫波町二日町 古館

二日ふつか町の東部、北上川右岸の河畔にある標高一八〇・四メートル、比高八二メートルの孤立丘陵上に位置。紫波郡のほぼ中央にあたり、頂上本丸跡からは四方眺望が開ける山城で、水陸交通の要衝であった。鎌倉時代中期以降当地方を支配した斯波氏居城であったとされ、高水寺城・斯波館などとよばれたが、天正一六年(一五八八)南部信直によって攻略され、同一九年には郡山こおりやま城と改称された。

斯波氏は足利氏の一族で、当郡の地頭であったとされる。足利氏と当郡のかかわりは文治五年(一一八九)の奥州合戦の功により足利義兼が当郡を拝領したのが始まりとみられ、義兼のあと義氏―泰氏―家氏―宗家―家貞―高経と続く(尊卑分脈)。奥州斯波系図(続群書類従)に「足利尾張守家氏、始而奥州斯波郡下向仕、高水寺ニ在城仕候」とあり、家氏が足利氏の本流から分れ当郡に居住したことから斯波を名乗ったといわれる。当初高水寺の一郭に居住したため、居館も高水寺城とよばれるようになったと伝える。足利尊氏の側近の部将として活躍した高経のあと、家長が斯波氏の本流から分れて奥州斯波氏を興した。家長は大将斯波殿・志和尾張弥三郎殿・斯波陸奥守殿などと称され(建武三年三月三日「相馬光胤着到状」・同四年正月日「相馬胤頼着到状」相馬文書、年月日未詳「相馬胤家代恵心申状案」相馬岡田文書)、奥州総大将・関東執事の地位にあり、北畠顕家などの南朝方に対抗する足利方の指揮官ともいうべき存在であったが、建武四年(一三三七)一二月鎌倉で討死した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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