高田城(読み)たかだじょう

日本の城がわかる事典 「高田城」の解説

たかだじょう【高田城】

新潟県上越市にあった江戸時代の平城(ひらじろ)。新潟県指定史跡。越後高田藩の藩庁の置かれていた城である。旧高田市街の中心部に位置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸を配した城で、関川、青田川などを外堀として、曲輪(くるわ)には石垣を用いず土塁を採用した城郭である。1610年(慶長15)、徳川家康六男の松平忠輝が信濃川中島から越後高田藩60万石に入封した。このとき、忠輝は福島城(上越市)に入城したが、1614年(慶長19)、忠輝は福島城を廃して、高田城を築城し、同城を居城および藩の政庁とした。このとき、天守はつくられず、その代用として、江戸城の富士見櫓(ふじみやぐら)に似た外観の3重3階の三階櫓がつくられた。このとき、城の縄張りと工事を監督したのは伊達政宗(だてまさむね)(忠輝の舅)といわれ、建設には上杉家や前田家などの外様大名が動員された。しかし、その2年後、忠輝は将軍秀忠により改易されてしまう。その後、1624年(寛永1)には松平光長が越前北ノ庄から26万石で入封・入城した。光長は1665年(寛文5)の高田地震で倒壊した三階櫓を再建し、高田城下直江津港の整備などを行ったが、越後騒動御家騒動)により1681年(天和1)に改易となった。以降、榊原氏、稲葉氏、松平氏などが城主をつとめて明治維新に至るが、江戸時代中期以降は不始末を犯した親藩譜代大名の懲罰的な転封先となった。1870年(明治3)に三階櫓と本丸御殿焼失し、1873年(明治6)には廃城令により焼失を免れた建物も取り壊された。その後、城の東半分が陸軍高田連隊の駐屯地となったため、堀や土塁が撤去された。現在、土塁と堀が残る城跡の西半分が高田公園として整備されている。城の遺構は、前述した経緯から長らく土塁と堀のみだったが、1993年(平成5)に上越市により三階櫓が、また、2002年(平成14)には二の丸と本丸の間に架かっていた極楽橋が再建された。再建された三階櫓の1、2階は展示室、3階は展望室になっている。なお、高田公園の桜は日本三大夜桜の一つとされているが、これは陸軍の駐屯地となったときに3000本のソメイヨシノが植えられたことによる。また、外堀の大半が蓮に覆われ、毎年「蓮まつり」が開催されているが、これは明治維新後、失職した旧藩士救済のため蓮根栽培が行われたことに由来する。JR信越本線高田駅からバスで高田公園入口下車。◇鮫ヶ城、関城、高陽城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高田城の言及

【越後国】より

…10年,堀氏のあと家康の第10子松平忠輝が入封,ここに徳川氏の支配が始まる。幕府は14年東北13大名に高田城を築かせ,北国の固めとして忠輝をここに入れたが,16年(元和2)忠輝の行状に不遜なものがあるとして改易,その遺領を幕領および高田,長嶺,藤井,長岡,三条の5藩に分かち,ここに小藩分立時代が到来した。その後,廃藩と削封と新藩設置の中で幕領が拡大し,幕末には1奉行所(新潟),3代官所(水原,出雲崎,川浦),5大名(桑名,会津,米沢,新発田,高田藩)預地の幕領と7旗本領,11藩および国外大名(一橋家と桑名,会津,高崎,出羽上之山,沼津の5藩)飛地領に分かれた。…

【高田】より

…郵便の父,前島密は当地の出身で,記念館がある。【磯部 利貞】
[高田城下]
 近世に城下町であった高田は,中世以前は関の庄菩提が原とよばれた。上杉氏の春日山城に代わって堀氏は福島城(直江津)を築いたが,1610年(慶長15)改易となり,徳川家康の六男松平忠輝が城主となった。…

【高田藩】より

…即日,家康は六男松平忠輝を川中島(松代)から福島城主とし,越後一国60万石の大守とした。しかし忠輝は14年幕府へ願って高田城を築き,高田を開府した。工事は国役普請により,伊達政宗以下13大名が命を受けて3月着工,7月第1期工事が竣工して忠輝は入城した。…

※「高田城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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