高遠城下(読み)たかとおじようか

日本歴史地名大系 「高遠城下」の解説

高遠城下
たかとおじようか

[現在地名]高遠町大字東高遠ひがしたかとお・西高遠

高遠城は三峰みぶ川及びその支流藤沢ふじさわ川に三方が囲まれた段丘台地の突端に築城されたので、城下は当然東の月蔵がつぞう山麓の方向に発展したものと考えられる。しかし江戸時代の高遠城の大手は西で、東の方が搦手であった。これにつき、安永八年(一七七九)成立の「木の下蔭」(蕗原拾葉)には「搦手の方古は町なり、今町名残れり」とあり、明治二年(一八六九)成立の「板町落葉」(同書)には「高遠ノ地ハ古板町村ト鉾持村ト地ヲ接スルノミ武田氏ノ新築ニ及テ市街ヲ西ニ設ケ藩士ノ居宅ヲ東ニ設ク古意ヲ存スト云ヘシ故ニ大手ハ東搦手ハ西ナリト落城ノ時マテ云伝ヘシナリ」とあるが、根拠はつまびらかでない。しかし現に東高遠にはいた町・よこ町・あら町などの町名も残り、「高遠町誌」では「保科時代の旧図を見れば、大手門は東になっているが、これは城下町が東にあったことを示す」とし、更に月蔵山麓に創建年代が文禄・慶長から寛永(一五九二―一六四四)に至る間に創建されたと伝える寺社一直線上に並んでいるのは城郭防備の計画的なものだろうとしている。

城下町が西高遠に作られたのはいつなのか、史料はつまびらかでない。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に、村位は上、村高は「弐百拾五石壱斗九升九合九勺 高遠町共ニ」とあり、この町は東高遠の町か、鉾持ほこじの町か、新設の城下の西の町かつまびらかでないが、鉾持の町かと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高遠城下の言及

【高遠[町]】より

…北東部の入笠(にゅうがさ)山南西麓には山室温泉がある。【萩原 毅】
[高遠城下]
 赤石山脈より流れる三峰川と,北からの藤沢川との合流点に位置する。城は戦国の山城がそのまま近世まで残存したもので,城下町は地形の関係上平地のそれとは発達の過程も規模構造も異なる点が多い。…

※「高遠城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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