戦国期~江戸期の城。長野県伊那(いな)市高遠町東高遠(たかとおまちひがしたかとお)にあり、別称を兜(かぶと)山城ともいう。室町期から戦国の初期にかけて諏訪(すわ)氏の一族高遠氏がこの一帯を領していたが、1545年(天文14)高遠頼継(よりつぐ)のとき武田信玄(しんげん)に滅ぼされ、翌々47年秋山信友(のぶとも)、山本勘助(かんすけ)らによって築かれた。城は本丸、二の丸、三の丸のほか、法幢院(ほうどういん)・笹・南・勘助曲輪(くるわ)の各曲輪があり、自然地形を巧みに生かした甲州流の縄張りがうかがわれる。信玄は遠江(とおとうみ)、三河に進出する拠点としてこのような大規模な城を築いたのである。のち城主は保科正俊(ほしなまさとし)、武田勝頼(かつより)、保科盛信(もりのぶ)というように変遷し、江戸期には保科氏、鳥居氏、内藤氏が入った。現在、城址(じょうし)には太鼓櫓(たいこやぐら)、城門が残り、城址公園は桜の公園として知られている。
[小和田哲男]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報