鬼塚遺跡(読み)おにづかいせき

日本歴史地名大系 「鬼塚遺跡」の解説

鬼塚遺跡
おにづかいせき

[現在地名]葛飾区奥戸一―三丁目

中川左岸の微高地上に立地。古墳時代から奈良・平安時代、中世近世に至る遺構・遺物が出土している。養老五年(七二一)の下総国葛飾郡大島郷戸籍(正倉院文書)に記載される仲村なかむら里に関係する遺跡として注目される。古墳時代の資料は古式土師器、後期の竪穴住居跡、土師器焼成窯、土師器・須恵器が重なるように多量に出土した溝などが発掘されている。奈良・平安時代では井戸埋め儀礼を行ったと思われる牛の下顎骨が納められた井戸跡や大型の石製鉈尾が出土している。

鬼塚遺跡
おにづかいせき

[現在地名]東大阪市箱殿町・新町宝町・南荘町

生駒山長尾ながお谷の流れが形成した扇状地上、標高二〇―三〇メートルに位置する縄文―平安時代の集落跡。昭和三五年(一九六〇)枚岡電報電話局の建設工事によって多くの前期弥生式土器縄文式土器が出土し、遺跡発見の糸口になった。同四三年以降数次にわたる発掘調査が実施された。弥生式土器は生駒山西麓では最も古い様相を示すものといわれ、また同一包含層内からは晩期の縄文式土器も検出されていて、河内の平野部で稲作が開始された頃の様子を知るうえで重要な遺跡である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報