鴻巣村(読み)こうのすむら

日本歴史地名大系 「鴻巣村」の解説

鴻巣村
こうのすむら

[現在地名]古河市鴻巣

東の松・雑木林を背に西へ向かって御所ごしよ(昭和二六年干拓完了)に突出た半島状の台地上に位置。付近は至るところ遺跡といってよく、旧石器の採集された城の地じようのち遺跡、縄文前期の土器片を含む鴻巣貝塚や虚空蔵東こくぞうひがし貝塚、縄文中期の土器片のみられる遺跡、また古墳時代の土師器も鴻巣御所入口辺りから出土。中世の考古遺品では応安七年(一三七四)以下の板碑も出土。地名は「鎌倉大草紙」「永享記」などにみえるが、文書では永禄五年(一五六二)とされる石河某書出写(下総旧事)の「鵠巣」、同一一年とされる北条氏政書状写(野田家文書)の「鴻巣」が古い。

鴻巣村
こうのすむら

[現在地名]吉田町鴻巣

富永とみなが村の北にあり、東は米納津よのうづ村の耕地に接する。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に「大石源忍分 吉田之内こうのす村」とあり、合計一四貫一七〇文が記される。また「中原水主助分 吉田之こうのす 牛か嶋村」ともある。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録は高四七三石五斗余。幕末には三根山藩領。慶安二年(一六四九)検地帳(幸田重寛氏蔵)によれば、上田二八一石三斗・中田一九五石四斗・下田一九九石九斗、上畑二一石二斗・中畑八石三斗・下畑八石八斗、野手六斗。

鴻巣村
こうのすむら

[現在地名]那珂町鴻巣

南北に南郷なんごう街道が縦貫し、西は飯田いいだ村と戸崎とざき村。中世には佐竹氏領で、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「こうのす」とある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「鴻巣村」とみえる。昔この地に一大松があり、毎年一鉅鳥が来てその上に巣食ったのが地名の起源と伝える。同二一年の御知行割郷帳には伊藤玄蕃与力ら三人の知行とみえ、「水府志料」によると戸数およそ一五三。

鴻巣村
こうのすむら

[現在地名]友部町鴻巣

東は小原おばら村、南・西は友部村に接し、村の東端を涸沼前ひぬままえ川が流れる。中世は宍戸氏の支配下にあったが、文禄元年(一五九二)から佐竹氏領、慶長七年(一六〇二)に秋田氏領となり、同年の御知行之覚(秋田家文書)に村高二〇三・四五石と記される。正保二年(一六四五)秋田氏移封後は天領・旗本領となり、幕末は天領一六九石余、旗本内藤氏領三八石余(各村旧高簿)、明治六年(一八七三)の戸数二八(友部町百年史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報