鵜山村(読み)うやまむら

日本歴史地名大系 「鵜山村」の解説

鵜山村
うやまむら

[現在地名]名張市鵜山

山を隔てて西田原にしたわら村の西北に位置する。東西二つに分れた山間の集落で、東鵜山ひがしうやまは伊賀国名張郡、西鵜山は大和国山辺やまべ(現山添村)に属し、中央の文珠もんじゆ山の峠で境する。応和二年(九六二)八月二〇日の転経院牧地等去文案(東大寺文書)および康保元年(九六四)九月二五日の大和国都介郷刀禰等解案(同文書)に新開治田として「蜷曳野になびきの」がみえる。伊賀・大和国界に位置し、薦生こもおと山辺郡広瀬ひろせ牧との間にあり、同地がある牧地・山の四至を「東限水堺山、南限高山、西限大河、北限水堺并道路谷」と記すから、鵜山のほかに考えられない。

鵜山村
うやまむら

[現在地名]佐伯長良ながら 宇山うやま

じよう村の南、大越おおこえ川下流域に位置。正保郷帳には宇山村とみえ、田高三四一石余・畑高七四石余、堅田かたた郷に属した。その後の郷帳類では堅田村に含まれている。元禄見稲簿でも堅田村のうちで無高。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)にも堅田村の枝郷とある。文化二年(一八〇五)には高三六〇石余、免二ツ九分五厘(多田家文書)。旧高旧領取調帳では高三七〇石余。文化七年の家数四三・人数一七一(温故知新録)。宝永二年(一七〇五)に始まる藩専売の炭は黒沢くろさわ山で焼成され、いったん当村の炭蔵に納められていた(大分県史)。明治八年(一八七五)江頭えがしら柏江かしわえ塩月しおつき津志河内つしがわちの四ヵ村と合併し長良村となる。

鵜山村
うやまむら

[現在地名]門前町鵜山

五十洲いぎす村の東、皆月みなづき湾に臨む傾斜地に立地。「能登名跡志」に、当地にはかつて天台宗寺院があり、法積坊ほうせきぼう栄林坊えいりんぼうという地名が残るとあり、現在は寺田てらだと称している。この寺を建暦三年(一二一三)二月の青蓮院門跡領惣目録写(華頂要略)に、近江比叡山無動むどう寺領としてみえる「千興寺」に比定する説がある。中世には志津良しつら庄の内。大永元年(一五二一)から天文五年(一五三六)頃と推測される渓和尚志津良庄年貢帳(棘林志)に「請ケ山、分銭二貫三百文」とみえ、「請ケ山」は鵜山のこととされる。

鵜山村
うやまむら

[現在地名]池田町大字中鵜なかう 鵜山

現池田町南部に位置し、隣の現中之郷なかのごう集落とともに、東の中山なかやま山地と西の高瀬たかせ川の間がようやく狭まった水田地帯にある。

鵜山の名は、天正六年(一五七八)の下諏訪春秋両宮御造宮帳に「秋宮瑞籬弐間外籬九間、春宮外籬五間、右造宮仁科之内」として仁科にしなのうちの五ヵ郷をあげている中に「鵜山」とみえるのを初見とし、諏訪大社の造宮所役が課せられていたことがわかる。

鵜山村には村居の東方に山城があった。

鵜山村
うやまむら

[現在地名]山添村大字鵜山

北葛尾きたくずお村北東、名張なばり川東岸に立地する。当村東方にも鵜山(現三重県名張市)があり、俗に伊賀鵜山を東鵜山ともいう。したがって、当村を西鵜山とよぶ場合もある。また県界にあるので境坂ともいう。名張川東方唯一の現奈良県下の村である。「国民郷士記」に宇山越前らの名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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