鵜殿村(読み)うどのむら

日本歴史地名大系 「鵜殿村」の解説

鵜殿村
うどのむら

[現在地名]高槻市道鵜どうう町一―三丁目・同五―六丁目・萩之庄はぎのしよう三丁目・同五丁目・井尻いじり二丁目・上牧かんまき町四―五丁目

上牧村の南西にある。淀川右岸、檜尾ひお川左岸に位置し、南は淀川を挟んで河内国交野かたの下島しもじま(現枚方市)西方の集落道斎どうさい近世の河港で、蔵米の津出しや北部山麓諸村の物資を浜積みしたが、梶原かじわら村の枝郷であった。「土佐日記」には、紀貫之が土佐国守の任を終えて淀川をさかのぼって帰京する承平五年(九三五)二月九日条に「うどのといふところにとまる」とみえる。その頃、山崎やまさき(現三島郡島本町)柱本はしらもとなどとともに、淀川水運の泊り場として、また景勝として名を高めたもののようで、「平家物語」巻七(一門都落)では、平貞能は木曾義仲勢を「けちらさむとて五百余騎で発向したりけるが、僻事なれば帰りのぼる程に、うどのの辺にて行幸にまいりあふ」と平家都落ちの舞台になっている。

鵜殿村
うどのむら

[現在地名]鵜殿村

興国二年(一三四一)一二月二七日の綸旨(熊野速玉大社古文書古記録)に「鵜殿庄司当知行地」とあり、後村上天皇は鵜殿庄荘司高義に当知行地を安堵している。永徳四年(一三八四)二月七日の執行道賢一跡配分目録(米良文書)にも鵜殿の地名がみえる。慶長六年(一六〇一)一二月六日付の和歌山藩から三方社人中への寄進状(熊野速玉大社古文書古記録)に「鵜殿村之内九石弐斗」と記される。古くは烏止野うどのと書いたといわれる。

鵜殿村
うどのむら

面積:三・一一平方キロ

南牟婁郡の南東端、三重県の最南端に位置し、三重県内で面積最小の村である。北西部は紀宝きほう町に接し、東は熊野灘、南は熊野川河口に面している。大別して下地しもじ地区と上野うえの地区に分けるが、下地地区は紀州製紙工場をはじめとする各種工場や商店によって占められ、上野地区は住宅地として発展している。

第五次港湾整備五ヵ年計画により昭和五一年(一九七六)度より着工された鵜殿港の建設は、すでに防波堤や岸壁工事が竣工した。総面積は三五万平方メートルで、航路および停泊水域一一万九千平方メートル、泊地面積二万平方メートル、臨港工業用地一一万三千平方メートルなどとなり、港内へは二千トン級の船舶出入りし、数十隻の小型漁船が停泊できることになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報