鶴ヶ岡城(読み)つるがおかじょう

日本の城がわかる事典 「鶴ヶ岡城」の解説

つるがおかじょう【鶴ヶ岡城】

山形県鶴岡市にあった平城(ひらじろ)。江戸時代には庄内藩の藩庁が置かれた城で、現在の同市街地の中心部に位置する。ほかの東北地方の城郭と同様、土塁を多用し、主要部分のみに石垣を用いた縄張りで、天守はつくられず、本丸の東北隅と二の丸南西隅の2ヵ所に2層2階の隅櫓(すみやぐら)があった。鶴ヶ岡城の前身となったのが武藤大宝寺氏の大宝寺城で、当初は武藤氏の居城として、尾浦城築城後は支城となっていた。武藤氏は庄内地方の領有をめぐって山形城の最上氏と争い滅亡したが、その後の庄内は、越後の上杉氏と最上氏の争奪の場となった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、庄内地方は最上氏の領地となり、これに伴い、大宝寺城は最上氏の城となり、最上義光は庄内地方統治の拠点として東禅寺城、尾浦城とともに大宝寺城を整備拡張し鶴ヶ岡城と改名した。1622年(元和8)に最上氏が改易となると、徳川四天王の筆頭といわれた酒井忠勝が庄内に入り、庄内藩が成立した。忠勝はそれまでの庄内の主城だった尾浦城ではなく鶴ヶ岡城を居城・藩庁に定め、大改修に着手して二の丸、三の丸の拡充や城下町の整備を行った。同城が完成したのは第3代藩主の忠義の治世で、54年の歳月をかけた改修が行われたことになる。戊辰戦争では、庄内藩は奥羽越列藩同盟強硬派で、会津藩が降伏後の9月下旬まで新政府に抗戦した。城は1871年(明治4)の廃藩置県により廃城となり、その後城内の建物は取り壊されて、鶴岡公園となり曲輪(くるわ)、土塁、石垣、堀が残っている。本丸、二の丸跡には藩祖の酒井忠勝を祀る庄内神社や稲荷神社や大宝館(郷土人物資料館)が、三の丸跡には酒井家伝来の美術品などを展示する致道博物館や、酒井家の隠居所である御隠殿、国の名勝に選定された酒井家御用屋敷跡庭園がある。また、鶴岡公園の南東には東北地方で唯一現存する藩校の致道館(国指定史跡)がある。JR羽越本線鶴岡駅からバスで致道博物館前下車。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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